詩織がいなくなって、一カ月が過ぎた。
最初は、ただ不便なだけだと思っていた。
掃除の行き届かない部屋、溜まっていく洗濯物、夜になって気づく空っぽの冷蔵庫。
だがそれは、単なる「不便」という言葉では片づけられなかった。
家事代行と外食で、ひと月の出費は二十五万を超えた。
明細を見た瞬間、思わず目を疑う。
五年で三百万。
正直に言えば、安かったと言ってもおかしくない。
あれだけのことを、あの金額でやっていたのだから。
それでも、みっともないと思われたくはなかった。
詩織に対しても、自分自身に対しても。
プライドが邪魔をして、彼女が指定した口座に現金を振り込んだ。
一円の不足もなく、事務的に。
振り込み完了の画面を閉じたあと、胸に残ったのは達成感でも解放感でもなかった。
俺は、本気で詩織と結婚するつもりだった。それは嘘じゃない。
友人たちの前で、冗談半分に「家政婦みたいなもんだよ」と言っていたのも事実だが、内心では分かっていた。
あんなふうに尽くす女は、他にいない。
派手さはないが堅実で、無駄がなく、料理が上手だった。
自己主張は控えめで空気が読めて、俺の生活を俺以上に理解していた。
もし子どもができたら――そんな想像をしたことも、一度や二度じゃない。
遺伝子も悪くない。容姿もそれなりに整っている。
高学歴で仕事ができ、真面目で思いやりもある。
結婚相手として見れば、条件は揃いすぎるほど揃っていた。
彼女以上にふさわしい女はいない、そう本気で思っていた。
なのに、なぜこうなったのか。考えれば考えるほど、答えは単純だった。
俺は「失う」という選択肢を、最初から想定していなかった。
愛されていることも、尽くされていることも、すべて当然の前提だったのだ。
静まり返ったリビングで、誰もいないキッチンを見渡しながら、ようやく理解する。
詩織は便利な存在でも、代替可能な存在でもなかった。
「結婚相手としてふさわしい女」
――そうやって評価していた時点で、もう決定的に何かを間違えていたのだと。
だが、その気づきは、あまりにも遅すぎた。
舞が部屋にやって来たのは、そんなことを考えていた夜だった。
ドアを開けた瞬間、彼女は散らかったリビングを見渡し、わざとらしくため息をつく。
床に転がる酒の空き缶、コンビニ弁当のゴミ。
「……情けないわね」
その声に、わずかな苛立ちが走る。
「詩織さんなんて、大した彼女じゃなかったでしょう? 根暗だし、ダサいし。話も面白くなかったじゃない」
「派手じゃなかっただけだ」
人の彼女をここまで言われて、腹が立たないわけがない。
化粧でごまかしている舞より、よほど整った顔立ちをしていた。
「わたしみたいな子がタイプだったでしょう?」
そう言いながら、舞は当然のように腕にしなだれかかってくる。
甘ったるい香水の匂いが鼻についた。
――んなわけあるか。
「いいじゃん。また前みたいに適当に遊べば。最近付き合い悪くて、みんなつまんないって言ってるよ」
俺は肩をすくめ、舞を軽く押しのけた。
「……うるさい。舞も少しぐらい料理の勉強でもしろよ」
舞は目を丸くし、すぐに笑う。
「いらないし。その分、稼げばいいだけじゃん」
その言葉に、喉の奥がわずかに詰まった。
このレジデンスの家賃は、正直かなり高い。
今まで問題なく払えていたのは、俺が稼いでいたから――そう思っていた。
だが実際は違った。
詩織の収入がそれなりにあり、生活費の大半を彼女が負担してくれていたから、どうにかなっていただけだ。
エリートだからといって、遊んでばかりいれば貯蓄はできない。
気づけば毎月の支払いはぎりぎりで、余裕なんてどこにもなかった。
今さらながら、自分が思っていた以上に、かつかつの生活をしていたのだと突きつけられる。
舞はソファに腰を下ろし、何気ない調子で言った。
「そういえばさ。詩織さんって、一応大手に勤めてたよね? 専門職だって言ってたし。結構もらってたんじゃない?」
「ああ……」
俺は曖昧に頷く。
詳しく聞いたことはなかった。
というより、聞く必要がないと思っていた。
だが最近になって、ふと考える。
もしかしたら詩織は――俺よりも、ずっと高収入だったのかもしれない。
その事実が、今さらじわじわと胸に広がっていく。
舞の軽い笑い声を聞きながら、俺は黙ったまま、何も言えなくなっていた。
「今度、レセプションパーティーがあるじゃない?」
舞は思い出したように言った。
「詩織さんのところの企業も、参加するっぽいって書いてあったけど?」
一瞬、心臓が跳ねた。
そういえば、何かのコンペ絡みで――そんな回報が社内に流れていた気がする。
「ああ……来てたな。確か、参加者は営業からだったか」
「じゃない? 詳しくは分かんないけど」
舞はそう言って、俺の首に腕を回してきた。
以前なら、そのまま受け入れていただろう。
だが今は、無性にその距離が鬱陶しく感じられて、俺はぞんざいに彼女の腕を振りほどいた。
――もしかしたら、詩織に会えるかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がざわついた。
あれから、指定された金額を振り込み、入金した旨をLINEで伝えた。
だが返事はなく、すぐにブロックされていることに気づいた。
住んでいたアパートも、すでに引き払われていた。
彼女の友人を通じて連絡を取ろうとしたが、「忙しいから無理」と、あっさり断られた。最初に詩織を紹介してくれた先輩にもそれとなく探りを入れたが、誰も彼女の居場所を教えようとはしなかった。
「疎遠になってたから、今さらだよな……」
まるで、最初から俺が入れない場所へ、詩織が移動してしまったかのようだった。
「なに?」
舞が不思議そうに問いかける。
「いや、詩織が今どこに住んでいるのか分からないんだ」
「え? 未練たらたらじゃない。ウケるんだけど」
舞の、いつまでもギャルのような話し方が鼻についた。
頭が悪そうだ。
「面白く感じないのは、話が知的なだけだ。堅苦しいと感じるのは、内容を理解していないからだ」
「なに、急に詩織さんの肩を持って。亮はまだ三十二なんだし、今が一番モテる時期じゃない。仕事もお金も、住んでる場所も一流なんだから、遊べばいいのよ」
――うるさい女だ。
「私はさ、結婚とか絶対したくないし。今だったら稼いだお金は全部自分のために使えるし、部屋に帰って、夫や彼氏のパンツ洗濯するのなんて嫌だわ。自由な生活を、何で人のために捧げる必要があるのよ」
――おかしいだろ。
根本的に考え方が違う人間と、同じ空間にいること自体が不快だった。
舞の考えがどうであれ、そんなことはどうでもいい。
彼女と一緒にいることを楽しいと感じていた過去の自分が、ひどく恥ずかしかった。
「詩織とは五年も一緒にいた。生活を共有して、将来の話もしていた。俺は本気で結婚を考えていたし、条件だって揃っていたはずだ」
そう思えば思うほど、彼女が何の未練もなく離れていった事実が、理解できなかった。
「え、結婚する気はないって言ってたじゃない。何を今さら。あんな家政婦みたいに扱われてたら、誰だって嫌になるわよ。もう、いい加減諦めたら? 女々しいわ」
「――もう、帰ってくれ……」
一瞬、舞はきょとんとした顔をした。
次の瞬間、その表情が露骨に歪む。
「……は? なにそれ」
笑ってごまかすこともせず、声が低くなる。
「都合いいときだけ呼びつけて、飽きたら追い出すわけ?」
返事をする前に、彼女は立ち上がった。
「ほんと、最低」
ヒールの音を強く鳴らしながら玄関へ向かい、振り返りもせずにバッグを掴む。
「そんなに詩織さんがいいなら、今さら泣きつけば?」
ドアが乱暴に閉まる音が、部屋に響いた。
静まり返った部屋の中で、俺の意識は、すでに別の場所へ向いていた。
――レセプションパーティー。
仕事の場だし、参加できるかどうかも会社へ行ってからでないと分からない。
だが、もし詩織が来るのなら、偶然を装って声をかけることもできる。
冷静に話す機会だって作れるはずだ。
――会えば、分かる。
――話せば、思い出すはずだ。
詩織は、俺のことを愛していた。
少なくとも、あの五年間は確かだったはずだ。
あんなふうに尽くしてくれたのは、情でも義務でもなく、愛情だったに違いない。
だから、顔を合わせてきちんと話せば、きっと分かり合える。俺が少し折れて、もう一度やり直したいと伝えれば――。
今回のことだって、反省していないわけじゃない。
確かに、今までの自分は傲慢だった。
詩織の存在を当然のものとして扱い、感謝も言葉にしなかった。
そこは認める。悪かったと思っている。
だからこそ、誠心誠意謝れば、彼女も分かってくれるはずだ。
人は、そんな簡単に五年を切り捨てたりしない。
詩織は合理的で、現実的な女だ。
感情だけで動くタイプじゃない。な
ら尚更、冷静に話せば、元に戻る選択肢だって残っている。
そうだ、まだ終わっていない。
これはただの行き違いで、少し大きな喧嘩をしただけだ。
そう結論づけ、胸の奥に残る不安から目を背けた。
それが希望ではなく、執着だと気づくには、まだ時間が必要だった。

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