京都、百万遍リセット⑧

現代小説

詩織がいなくなって、一カ月が過ぎた。
最初は、ただ不便なだけだと思っていた。
掃除の行き届かない部屋、溜まっていく洗濯物、夜になって気づく空っぽの冷蔵庫。
だがそれは、単なる「不便」という言葉では片づけられなかった。

家事代行と外食で、ひと月の出費は二十五万を超えた。
明細を見た瞬間、思わず目を疑う。
五年で三百万。
正直に言えば、安かったと言ってもおかしくない。
あれだけのことを、あの金額でやっていたのだから。

それでも、みっともないと思われたくはなかった。
詩織に対しても、自分自身に対しても。

プライドが邪魔をして、彼女が指定した口座に現金を振り込んだ。
一円の不足もなく、事務的に。
振り込み完了の画面を閉じたあと、胸に残ったのは達成感でも解放感でもなかった。

俺は、本気で詩織と結婚するつもりだった。それは嘘じゃない。
友人たちの前で、冗談半分に「家政婦みたいなもんだよ」と言っていたのも事実だが、内心では分かっていた。
あんなふうに尽くす女は、他にいない。

派手さはないが堅実で、無駄がなく、料理が上手だった。
自己主張は控えめで空気が読めて、俺の生活を俺以上に理解していた。
もし子どもができたら――そんな想像をしたことも、一度や二度じゃない。
遺伝子も悪くない。容姿もそれなりに整っている。
高学歴で仕事ができ、真面目で思いやりもある。
結婚相手として見れば、条件は揃いすぎるほど揃っていた。
彼女以上にふさわしい女はいない、そう本気で思っていた。

なのに、なぜこうなったのか。考えれば考えるほど、答えは単純だった。
俺は「失う」という選択肢を、最初から想定していなかった。
愛されていることも、尽くされていることも、すべて当然の前提だったのだ。

静まり返ったリビングで、誰もいないキッチンを見渡しながら、ようやく理解する。
詩織は便利な存在でも、代替可能な存在でもなかった。

「結婚相手としてふさわしい女」
――そうやって評価していた時点で、もう決定的に何かを間違えていたのだと。

だが、その気づきは、あまりにも遅すぎた。

舞が部屋にやって来たのは、そんなことを考えていた夜だった。
ドアを開けた瞬間、彼女は散らかったリビングを見渡し、わざとらしくため息をつく。
床に転がる酒の空き缶、コンビニ弁当のゴミ。

「……情けないわね」

その声に、わずかな苛立ちが走る。

「詩織さんなんて、大した彼女じゃなかったでしょう? 根暗だし、ダサいし。話も面白くなかったじゃない」
「派手じゃなかっただけだ」

人の彼女をここまで言われて、腹が立たないわけがない。
化粧でごまかしている舞より、よほど整った顔立ちをしていた。

「わたしみたいな子がタイプだったでしょう?」

そう言いながら、舞は当然のように腕にしなだれかかってくる。
甘ったるい香水の匂いが鼻についた。

――んなわけあるか。

「いいじゃん。また前みたいに適当に遊べば。最近付き合い悪くて、みんなつまんないって言ってるよ」

俺は肩をすくめ、舞を軽く押しのけた。

「……うるさい。舞も少しぐらい料理の勉強でもしろよ」

舞は目を丸くし、すぐに笑う。

「いらないし。その分、稼げばいいだけじゃん」

その言葉に、喉の奥がわずかに詰まった。

このレジデンスの家賃は、正直かなり高い。
今まで問題なく払えていたのは、俺が稼いでいたから――そう思っていた。
だが実際は違った。
詩織の収入がそれなりにあり、生活費の大半を彼女が負担してくれていたから、どうにかなっていただけだ。

エリートだからといって、遊んでばかりいれば貯蓄はできない。
気づけば毎月の支払いはぎりぎりで、余裕なんてどこにもなかった。
今さらながら、自分が思っていた以上に、かつかつの生活をしていたのだと突きつけられる。

舞はソファに腰を下ろし、何気ない調子で言った。

「そういえばさ。詩織さんって、一応大手に勤めてたよね? 専門職だって言ってたし。結構もらってたんじゃない?」

「ああ……」

俺は曖昧に頷く。
詳しく聞いたことはなかった。
というより、聞く必要がないと思っていた。
だが最近になって、ふと考える。
もしかしたら詩織は――俺よりも、ずっと高収入だったのかもしれない。

その事実が、今さらじわじわと胸に広がっていく。
舞の軽い笑い声を聞きながら、俺は黙ったまま、何も言えなくなっていた。

「今度、レセプションパーティーがあるじゃない?」

舞は思い出したように言った。

「詩織さんのところの企業も、参加するっぽいって書いてあったけど?」

一瞬、心臓が跳ねた。
そういえば、何かのコンペ絡みで――そんな回報が社内に流れていた気がする。

「ああ……来てたな。確か、参加者は営業からだったか」

「じゃない? 詳しくは分かんないけど」

舞はそう言って、俺の首に腕を回してきた。
以前なら、そのまま受け入れていただろう。
だが今は、無性にその距離が鬱陶しく感じられて、俺はぞんざいに彼女の腕を振りほどいた。

――もしかしたら、詩織に会えるかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がざわついた。

あれから、指定された金額を振り込み、入金した旨をLINEで伝えた。
だが返事はなく、すぐにブロックされていることに気づいた。
住んでいたアパートも、すでに引き払われていた。

彼女の友人を通じて連絡を取ろうとしたが、「忙しいから無理」と、あっさり断られた。最初に詩織を紹介してくれた先輩にもそれとなく探りを入れたが、誰も彼女の居場所を教えようとはしなかった。

「疎遠になってたから、今さらだよな……」

まるで、最初から俺が入れない場所へ、詩織が移動してしまったかのようだった。

「なに?」

舞が不思議そうに問いかける。

「いや、詩織が今どこに住んでいるのか分からないんだ」
「え? 未練たらたらじゃない。ウケるんだけど」

舞の、いつまでもギャルのような話し方が鼻についた。
頭が悪そうだ。

「面白く感じないのは、話が知的なだけだ。堅苦しいと感じるのは、内容を理解していないからだ」

「なに、急に詩織さんの肩を持って。亮はまだ三十二なんだし、今が一番モテる時期じゃない。仕事もお金も、住んでる場所も一流なんだから、遊べばいいのよ」

――うるさい女だ。

「私はさ、結婚とか絶対したくないし。今だったら稼いだお金は全部自分のために使えるし、部屋に帰って、夫や彼氏のパンツ洗濯するのなんて嫌だわ。自由な生活を、何で人のために捧げる必要があるのよ」

――おかしいだろ。

根本的に考え方が違う人間と、同じ空間にいること自体が不快だった。
舞の考えがどうであれ、そんなことはどうでもいい。
彼女と一緒にいることを楽しいと感じていた過去の自分が、ひどく恥ずかしかった。

「詩織とは五年も一緒にいた。生活を共有して、将来の話もしていた。俺は本気で結婚を考えていたし、条件だって揃っていたはずだ」

そう思えば思うほど、彼女が何の未練もなく離れていった事実が、理解できなかった。

「え、結婚する気はないって言ってたじゃない。何を今さら。あんな家政婦みたいに扱われてたら、誰だって嫌になるわよ。もう、いい加減諦めたら? 女々しいわ」

「――もう、帰ってくれ……」

一瞬、舞はきょとんとした顔をした。
次の瞬間、その表情が露骨に歪む。

「……は? なにそれ」

笑ってごまかすこともせず、声が低くなる。

「都合いいときだけ呼びつけて、飽きたら追い出すわけ?」
返事をする前に、彼女は立ち上がった。

「ほんと、最低」

ヒールの音を強く鳴らしながら玄関へ向かい、振り返りもせずにバッグを掴む。

「そんなに詩織さんがいいなら、今さら泣きつけば?」

ドアが乱暴に閉まる音が、部屋に響いた。

静まり返った部屋の中で、俺の意識は、すでに別の場所へ向いていた。
――レセプションパーティー。
仕事の場だし、参加できるかどうかも会社へ行ってからでないと分からない。
だが、もし詩織が来るのなら、偶然を装って声をかけることもできる。
冷静に話す機会だって作れるはずだ。

――会えば、分かる。
――話せば、思い出すはずだ。

詩織は、俺のことを愛していた。
少なくとも、あの五年間は確かだったはずだ。
あんなふうに尽くしてくれたのは、情でも義務でもなく、愛情だったに違いない。
だから、顔を合わせてきちんと話せば、きっと分かり合える。俺が少し折れて、もう一度やり直したいと伝えれば――。

今回のことだって、反省していないわけじゃない。
確かに、今までの自分は傲慢だった。
詩織の存在を当然のものとして扱い、感謝も言葉にしなかった。
そこは認める。悪かったと思っている。
だからこそ、誠心誠意謝れば、彼女も分かってくれるはずだ。

人は、そんな簡単に五年を切り捨てたりしない。
詩織は合理的で、現実的な女だ。
感情だけで動くタイプじゃない。な
ら尚更、冷静に話せば、元に戻る選択肢だって残っている。

そうだ、まだ終わっていない。
これはただの行き違いで、少し大きな喧嘩をしただけだ。

そう結論づけ、胸の奥に残る不安から目を背けた。
それが希望ではなく、執着だと気づくには、まだ時間が必要だった。

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