京都、百万遍リセット⑤

◆ 京都、百万遍リセット
◆ 京都、百万遍リセット

エレベーターの扉に映る自分の顔を見て、少し驚く。
思っていたより、ずっと落ち着いている。
昨日までの私なら、このマンションに来るだけで胸がざわついていたはずなのに、今は不思議なほど何も感じない。

亮との接触は、できるだけ避けたかった。
この時間帯なら、まだ彼が眠っている可能性は高い。
そう願いながらカードキーをかざすと、小さな電子音を立ててロックが外れた。

昨夜は遅くまで飲んでいたはずだ。
起きてこなければ、荷物だけまとめて、何事もなかったように出ていける。

玄関の扉を開けると、リビングには昨夜の酒の匂いがどんよりと残っていた。

「……やっぱりね」

思った通りの状態にため息が出た。

「昨日のまんま。見事なまでに散らかってる」

テーブルには空のワインボトルと料理の残骸。
汚れた皿が放置され、床には紙ナプキンが散らばっている。

私が片付けるのが当たり前だった。
いつもなら彼はこう言うのだ。
『俺がいると邪魔になるから、掃除は任せるよ。いつもありがとう』
感謝の言葉だけは口にするが、亮が手伝ってくれたことは一度もなかった。

以前の私なら、素直に何の文句も言わず片付けていただろう。
ただ、「良い奥さんになる」と思われたくて。

「前の私は、頭がどうかしてたわ」

私はスーツケースを広げ、黙々と作業を始めた。
洗面所の歯ブラシに化粧品。キッチンのミトンやエプロン。
自分のものだけを選び取り、手早く詰めていく。
ここで捨ててもいいけれど、ゴミですら、私の私物に彼が触れること自体がひどく気持ち悪かった。

「……全部、持って帰ろう」

そのとき、背後でずるずると足音がした。

「……ああ……詩織?」

眠たげな声がしたかと思うと、振り向くより早く背中に生ぬるい体温が触れた。
腰に腕を回され、耳元で甘えるような声が響く。

「おはよ……」

自分に非があると感じたとき、亮はいつもこうだ。
優しさと自己弁護を混ぜた甘えた声。

「結局、朝方までバーで飲んじゃってさ。悪かったね、置いてきぼりにして」

その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
吐き気がする。
私は彼の腕を振り払い、一歩前へ出て距離を取った。

「……お酒くさいんだけど」

亮の動きが止まる。
けれど彼は、私の態度の変化に、まだ気づいていないようだった。

「なあ詩織、しじみの味噌汁作ってくれない?二日酔いに効く、いつものやつ」

「え、嫌だけど」

即答して、背を向けた。

「ああ、マジで飲みすぎた……」

亮は私の拒絶が耳に入っていないのか、ソファにだらりと体を投げ出した。

私は気にせず、黙々と作業を続ける。
ペアで買ったマグカップ、私専用の箸。それらを次々と詰め込んでいく。

「部屋の片付けは後でいいって。ていうか、いつもならその日のうちにやるだろ?」

「そうね」

短く答える。
亮は眩しそうに片目だけを開け、喉を鳴らして弱々しくつぶやいた。

「……頭、割れそう。なあ詩織、二日酔いの薬、あっただろ?」

無視。
その声は、もはやただの雑音にしか聞こえなかった。

「自分の荷物を持って帰るから、寝室に入るわね」

背後から亮の声が追いかけてくる。

「おい、昨日は俺も飲みすぎたんだ。悪かったって」

返事はしない。

「……でも、ちゃんとLINEしただろ? いつまでも拗ねてないで、機嫌直せよ」

私は足を止め、ゆっくりと振り返った。

「拗ねてなんていないわ」

淡々と、事実だけを告げる。

「ただ、くさいだけ」

亮は意外そうに目を丸くした。

「そ、そう……先にシャワー浴びてくるわ」

袖口の匂いを嗅ぎながら、彼はバスルームへ消えていった。

私はその背中を見送ることもなく、再び作業に戻る。
寝室のクローゼットから着替えの服を取り出し、スーツケースに詰め込んだ。
もともと私物は少なかったおかげで、荷物は驚くほどコンパクトにまとまった。

キャリーケースの車輪が、ごろごろと音を立てる。
床に傷がいきそうだけど、私には関係ない。

「……なあ」

シャワーを終えた亮が声をかけてきた。
タオルで髪を拭きながら、まだ散らかったままのリビングを一瞥する。

「……手際、悪くないか?」

返す言葉すら無駄に思えて、私はそのまま玄関へ向かった。
スーツケースを見た亮が、不思議そうに言った。

「なに、旅行にでも行くのか?」

その声には心配も怒りもない。
ただ予定を確認する上司のような、他人事の態度だ。

「もう戻ってこないから。私物を取りに来ただけよ」

亮は気に留めた様子もなく、再びソファに体を沈めた。

「へえ。会社の旅行? でも部屋はどうするんだよ。このまま片付けない気か?」

以前の私なら、『ごめんね、すぐやるわ』と答えて掃除を始めていただろう。
けれど、今は違う。

「……ふっ」

短く、乾いた笑いが漏れた。
亮が怪訝そうに身を起こす。

「じゃあさ、先に味噌汁作ってよ。それからゆっくり片付ければいいだろ」

「無理だけど」

「……え?」

「飲みたかったら、自分で作れば?」

突き放すのでも責めるのでもない。ただの事実として告げた。

「……何かあったのか? 怒ってるのか?」

ようやく、彼はそう聞いてきた。

「いいえ」

即答する。

「怒ってなんていないわ」

亮は立ち上がり、私の顔を覗き込んできた。

「詩織にはいつも感謝してるよ。料理も掃除も上手いし、俺のために何でもしてくれる。最高の彼女だと思ってる」

そう言って、彼は私を抱きしめようと腕を伸ばした。

私は左肩を引いて、その腕を避ける。

「おい、いい加減に機嫌直せよ」

「別に怒ってない。ちょっと邪魔だから、そこどいてくれる?」

「なぁ……」

亮が私の腕を掴んだ。
その瞬間、ゾッとした。
気持ちが悪くて、肌に蕁麻疹が出そうなほどの不快感が全身を走る。

「そういえば、昨日の食材費。あれ、全部私が出しているわね」

「……食材費?」

亮の腕を払い、私はコートのポケットを探りながら軽くうなずいた。わざと一拍、沈黙を置く。

「私、一口も食べていないから。全部払ってね」

その言葉に、亮は動きを止めた。
三万八千円のレシートを差し出すと、彼は少し躊躇いながらも渋々つまみ上げた。
たちまち眉間にしわが寄り、口元が下がっていく。

「……は? こんなに使ったのかよ」

驚きよりも不満が混じった声。

「それでも安い方よ。ケータリングじゃないし、全部私の手作りなんだから」

亮は納得いかないのか、無駄な買い物がないかレシートの中身を確認している。
小さく舌打ちすると、ようやくスマホを操作した。

「ほら、送った……。でも」

亮が顔を上げ、探るような目で私を見た。

「今まで、そんなこと言わなかっただろ?」

「え?」

私はわざとらしく首を傾げる。

「昨日って、あなたの友達の飲み会よね? まさか、私のおごりだと思っていたの?」

ぱちぱちっと瞬きして問い返すと、亮は露骨に顔をしかめた。
私から視線をそらし、ソファにどさっと座り直す。

「彼女だったらそういうの気にしないだろ。ケチかよ……貧乏くせぇ」

「堅実なの」

私の即答に、亮の肩がピクリと揺れた。

ここで私は、心の中で「厚顔無恥」のスイッチを入れる。
恥じることも、ためらうこともない。
堂々と、図々しく。
なんて清々しい気分だろう。

「そんな些細なことで文句言うなよ。将来はここに住めて、エリートの妻になれるんだぞ? 黙って俺を支えるのが役目だろ」

亮は勝ち誇ったように笑い、腕を組んだ。

相手にする価値さえない。

「あとで、今までの分もまとめて請求するから」
「……は?」

今度は、はっきりと亮の声が裏返った。

「パーティーのたびに、私が全部立て替えていたでしょう? 亮は一度もスーパーに来なかったものね」

「だって、俺が行っても何を買えばいいか分からないだろ! 料理をするのは詩織なんだからさ」

必死に言い訳をする彼に、私は深くうなずいてみせた。

「そうよね。だから、食材費もお酒代も、全部領収書が残っているの」

亮の喉が、ごくりと鳴った。

「だって、立て替えてたんだもの」

「……そんなこと、今まで一度も言わなかっただろう!」

声を荒らげる亮の目に、明らかな焦りが見えた。

「え、払わないの?」

私は穏やかに問い返した。
亮は言葉に詰まり、視線をさまよわせる。

「まさか……」

静かに、畳みかける。

「私のおごりだと思ってた?」

沈黙。
彼にとっては気まずいだろう空気が流れる。

「いや……そういう意味じゃなくてさ。今までずっと、普通にやってきただろ? お互い様っていうか……」

私は亮の顔を、上から下までゆっくりと眺めた。
そして、ほんの少しだけ口角を上げる。笑顔とは呼べないほど、冷ややかな弧。

「あなた……ケチなの?貧乏くさっ」

亮は、私の口からその言葉が出たことが信じられないようだった。
目をパチクリさせ、乾いた笑いを漏らす。

「私、これからは自分の人生を生きるわ」

言い捨てて、スーツケースの取っ手を引いた。
玄関の床に転がる老舗メーカーの革靴を、つま先で隅へと蹴りやった。

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