京都、百万遍リセット④

◆ 京都、百万遍リセット
◆ 京都、百万遍リセット

「……彼への愛など、いりません」

そう言った途端、私の額に触れる桂さんの指先がじんわりと熱を帯びた。
店内の空気はふっと静まり、まるで時間さえもが息をひそめたかのようだ。
揺れる明かりの下で、気配が一段と重く沈み込む。
桂さんは、低く静かな声でささやいた。

「……愛する気持ちを、質に入れるんやね」

その瞳が、暗い紫へと変わる。
それは、優しさと冷たさのちょうど真ん中にあるような色だった。

「……冷たくされても、結婚するんだからって、ずっと我慢していました」

桂さんは、何も言わずにうなずいた。

「本当は、ずっと分かっていたんです。私は大切にされていないって」

「質に入れた想いはな、返してほしいと願えば戻る。……どうする?」

「いいえ」

私は首を振った。

「もういりません。彼を愛していた自分ごと、捨てます」

その瞬間、桂さんの瞳が火のように揺れた。

「なら……預かろう」

静かな声だった。

「あんたが五年間育てた、『愛情』っていう縁。ここに置いていき」

桂さんは私の胸元に手をかざした。触れられていないのに、心臓の奥がじわじわと熱くなる。

「もう必要ないのなら、その愛情は……質流れや」

私は息を吸い、震える指をきつく握りしめる。

「もう、いらない。今日で終わり。彼を愛していた自分に、二度と戻りたくない」

桂さんは、お祝いでもするかのように微笑んだ。

その時だった。

胸の奥にずっとあった、あの重苦しい痛みが、すっと消えた。
穴が開いたというより、最初から何もなかったかのように、身体が軽い。

亮への愛が、たしかに「質に入れられた」のだと、心の中で理解した。

桂さんは、私から切り離された「それ」を、目に見えない何かとして両手で受け止めた。
それから、静かに言った。

「……愛情、たしかに預かっわ」

一拍置いて、続ける。

「その代わりに、あんたに渡すもんは……そうやな」

明かりが揺れ、桂さんの横顔が浮かび上がる。

「一応、現金でもええけど。ここでは、他のものも選べる」

そう言って、黒い箱の中から一巻の巻物を取り出した。
そこには、いくつかの言葉が並んでいた。

厚顔無恥:恥ずかしいと思わず、図々しくなれる

破廉恥:恥を気にせず、思い切った行動ができる

傍若無人:周りを気にせず、勝手に振る舞える

鉄面皮:何を言われても動じない、図太い心

「ここから、好きなのを選び」

「……これを選ぶんですか?」

正直、どれもあまり欲しくない言葉ばかりだ。

「遠慮せんでええ。これは『スキル』みたいなもんや。必要なときに、あんたを助けてくれる」

断るという選択肢は、最初からなさそうだった。
私は少し考えてから、口を開いた。

「……じゃあ、『厚顔無恥』にします」

四つの中では、比較的クセが弱いものを選んだつもりだ。

「図太い性格ではないので……もう少し、自分に自信が持てるようになりたいです」

桂さんは、にこりと笑った。

「ええ選択や。人間、少し厚かましいくらいが、ちょうどええ」

そして、私をまっすぐ見つめて言った。

「誰かに選ばれるのを待つんやなくて、自分で自分を選べる強さ。それがな、あんたに一番足りなかったもんや」

その言葉は、不思議とすんなり胸に落ちた。

「愛情を手放した分だけ、心に空き場所ができたやろ?」

桂さんは、私の胸のあたりを指さした。

「そこに、自信を入れなはれ。それが、この店の取引や」

胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「自信はな、持ちすぎると鼻につく。ちゃんと自分でコントロールしなさいよ」

そう言って、少しだけ声を和らげた。

「それじゃあ……新しい自分のために、生きなはれ」

その言葉が、静かに、深く、私の中に染み込んでいった。

***

昨夜、焔魔堂でそのまま眠ってしまった私は、結局、彼のマンションには戻らなかった。
翌朝、自分のアパートへ帰り、部屋に入るなりコートを脱いでベッドに腰を下ろす。

スマートフォンはバッグに入れたままだった。
まだ、亮からの通知を開く勇気が出ない……わけではない。
単に、見る価値を感じなかっただけだ。

昨夜、私は「お酒を買いに行く」と言って出たきり、姿を消した。
普通なら、戻ってこない恋人を心配して、何度も電話をかけたり、探し回ったりするものだろう。
それが私の想像する「恋人」の姿だった。

一応、スマホを確認してみる。

「……やっぱりね」

亮からメッセージは来ていた。
けれど、私の身を案じる言葉は一つもなかった。

『詩織が遅いから、これからバーで飲み直すことになった』
『帰りは遅くなるから、先に自分のアパートに帰っていいよ』

以前の私なら、この文字を見て胸が締めつけられていただろう。
「お酒を買う」という役目を果たせなかった自分を責めていたはずだ。

でも、今は違った。

「は?」

思わず、鼻で笑ってしまった。

「人を寒空の下に追い出しておいて、自分たちはさっさと飲み直し?」

画面を見つめたまま、低くつぶやく。

「……ふざけないでよ」

怒りが湧き上がるかと思ったが、実際には驚くほど冷めていた。
なんで今まで、こんな男に尽くしてきたのだろう。馬鹿馬鹿しくて、呆れてしまう。

「愛情がなくなれば、亮なんてどうでもいい存在だわ」

口に出すと、言葉が不思議なほど軽かった。

「きっと、彼の部屋は昨日のままね」

飲み会の後片づけは、いつも私の役目だった。
亮は自分では掃除をしない。
散らかしっぱなしの部屋を、翌日私が片づけるのが当たり前の流れになっていた。

週に三日は彼の部屋へ通い、掃除も洗濯も完璧にこなした。
食事も、栄養バランスを考えて彼のために用意した。

「……まさに、無料の家政婦ね」

乾いた笑いが漏れた。家事の報酬なんて、一度ももらったことはない。
それどころか、食材費や洗剤などの消耗品、クリーニング代まで、そのほとんどを私が負担していた。

「家政婦のほうが、お給料をもらえるだけマシだわ」

その労力を仕事に回していたほうが、よほど有意義だった。
私の給料は、同年代より悪くない。
地味な専門職だが、貯金だってそれなりにあったはずだ。
それを彼の生活に注ぎ込んでいたなんて、今となっては信じられない。

「……そういえば、昨日のパーティー代も私が払ったわね」

財布からレシートを取り出し、家計簿アプリを開く。
入力を進めるうちに、ふと思いついた。

「どうせなら、今まで彼のために使ったお金、全部まとめて請求してやろうかしら」

五年分の記録を遡り、計算を始める。
……三百二十万円。

画面に表示された数字を見て、思わず息を呑んだ。

「こんなに使ってたんだ……」

このお金があれば、エステにも美容院にも行けたし、もっと自分に投資できたはずだ。

ふと、理性が頭をもたげる。
自分も一緒に食べていたのに、材料費を全額もらうのは図々しいのではないか。
だが、すぐに思い直した。これが「厚顔無恥」の効果かもしれない。

「いいえ、問題ないわ。買い出しも調理も私がやったんだから、手間賃だと思えばいい」

もし割り勘を主張されたら、彼の友人たちに言いふらしてやろうと思ったが、あいつらも全員亮の仲間だった。
なら、もっといい方法がある。

「……プライドの高い亮のことだもの。上司にでもメールを送ってあげようかな」

彼女に食費まで出させていたと知られたら、彼はさぞかし恥ずかしい思いをするだろう。

私はクローゼットの奥から、大きなスーツケースを引きずり出した。ほこりを払い、ファスナーを勢いよく開ける。

やるべきことは、もう決まっている。
彼のマンションに置きっぱなしの荷物を、すべて回収すること。
それだけだ。

スーツケースを転がし、私は駅へと向かった。

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