京都、百万遍リセット⑩最終章

現代小説

「……っ」

声にならない息が、喉から漏れた。
目の前にいたのは、間違いなく詩織だった。

逃げられると思った。
いや、逃がさないつもりだった。

俺は反射的に手を伸ばし、彼女の手首を掴む。
力は入れていない。
それでも、離す気はなかった。

詩織の身体が、ほんのわずかに引き戻される。

「話、終わってないだろ」

自分の声が、ひどく必死に聞こえた。
さっきまで取り繕っていた余裕なんて、もうどこにもない。
焦りと、どうしようもない執着だけが、胸の奥から溢れていた。

――行くな。
――まだ、俺の話を聞け。

もう一度、手を伸ばそうとした、その瞬間だった。

「……失礼」

低く、落ち着いた声が割り込む。

気づいたときには、見知らぬ男が一歩前に出ていた。
派手な仕草はない。
自然に身体を半身ずらし、結果として詩織を背に庇う位置に立っている。
意図的というより、無意識に近い所作だった。

「彼女が嫌がっています」

穏やかな口調。
だが、言葉ははっきりしていた。

俺の手は、宙で止まる。

「……なんだよ、お前」

苛立ちを隠す余裕すらなかった。
初対面のはずだ。
それなのに、まるで以前から彼女を知っているかのような距離感が、気に障る。

だが、男は視線を逸らさない。

「ここは業界向けのレセプションです。個人的な揉め事を持ち込む場所じゃない」

淡々とした声。
感情を交えない分、余計に正論だった。
そして、それが胸の奥に鋭く突き刺さる。

その背中越しに、詩織が見えた。

俺は、この洗練された空間の中で、ひどく場違いだった。
焦りと執着だけを前に出して、周囲がまったく見えていない男。

――ああ、そういうことか。

「詩織、俺は――」

言いかけた言葉を、遮られる。

「亮、触らないで」

その一言で、すべてが終わった。

口を開いたまま、言葉が出てこない。
拒絶は、これ以上ないほど明確だった。

「大丈夫ですか?」

男が、詩織にだけ向けて尋ねる。

「はい」

即答だった。
俺を見ることすらない。

二人は並んで歩き出す。
肩が触れない程度の距離。
近すぎもしない。
だが、その間に割って入る余地は、どこにもなかった。

きっと彼らは長い関係があるわけじゃないだろう。
それなのに、俺よりずっと自然だった。

詩織の背中が、人の流れの中に溶けていく。
黒に近いネイビーのワンピースが、会場の照明に紛れて見えなくなる。

追おうと思えば、まだ間に合ったはずだ。
数歩、足を出せばいい。
名前を呼ぶだけで、振り返らせることもできたかもしれない。

――なのに、体が動かなかった。

理由は分かっている。
追いついたところで、もう俺の居場所はない。

彼女の隣には、さっきの男がいた。
背筋を伸ばし、落ち着いた仕草で、
必要以上に踏み込むことなく、ただ詩織の選択を尊重する位置に立っていた男。

俺は、あの場で完全に負けていた。

声を荒げ、腕を掴み、必死に縋りつく自分と、
見ず知らずの相手でありながら、一線を守ったまま前に立ったあいつ。

どちらが大人か。
どちらがふさわしいか。
考えるまでもない。

会場に残る理由がなくなり、俺はグラスを置いた。
スクリーンに映る数式やグラフは、もう目に入らない。
ここは、俺の世界じゃない。

ホテルを出たとき、夜風が妙に冷たかった。
胸の奥に残っていたのは、怒りでも悲しみでもなく、
「遅すぎた」という、どうしようもない事実だけだった。

――それから半年が過ぎた。

俺の転落は、静かだった。

家に帰ると、広すぎる部屋が待っている。
明かりをつけても、どこか暗い。
詩織がいなくなってから、部屋はただの箱になっていた。

家賃の引き落とし通知が来る。
残高不足。
再引き落とし。
期限。

最初は「なんとかなる」と思っていた。
今までも、そうやって生きてきた。

だが、ならなかった。

家事代行を減らし、外食を控え、それでも出費は減らない。
生活を回していたのは、俺じゃなかったのだと、数字がはっきり突きつけてくる。

スーツのクリーニングを先延ばしにし、コンビニ弁当が続き、床に溜まる洗濯物を見て見ぬふりをする。

「エリート」「勝ち組」
そんな言葉は、もう何の意味も持たなかった。

管理会社からの連絡は、丁寧で冷たい。
支払いの相談。
猶予。
最終通告。

時計を売り、使っていない家電を処分し、それでも足りない。

段ボールに荷物を詰めると、この部屋がどれだけ無駄だったかを思い知る。
詩織が使っていた収納スペースだけが、妙に空白のまま残っていた。

――最初から、俺一人じゃ、ここには住めなかった。

引っ越し当日。
鍵を返し、エントランスを出る。

ガラス張りのロビーに映る自分は、このレジデンスに似合わない男になっていた。

振り返ることは、しなかった。
振り返ったところで、戻る場所はない。

あの夜、詩織の背中を追えなかった時点で、すべては終わっていたのだ。

スーツケースを引きながら、駅へ向かう。
足取りは重いが、不思議と迷いはなかった。

俺は負けた。
仕事でも、生活でも、そして何より――人として。

それをようやく認められたことだけが、この長い転落の、唯一の収穫だった。

***

【エピローグ】

百万遍の交差点を渡る足取りは、昔よりも軽くなっていた。
信号が変わるのを待ちながら、私はふと空を見上げる。
雲は高く、秋の気配を含んだ風が、頬をなでていった。

あの路地は、今も変わらずそこにある。
細く、静かで、昼間でも影の濃い道。
けれど、初めて足を踏み入れたときのような心許なさは、もうない。

路地の奥で、古びた木の看板が、同じように風に揺れている。
長い年月を黙って受け止めてきた、傷だらけの板。

――質屋・焔魔堂。

引き戸を開けると、鈴がひとつ鳴った。
その音は、以前よりもやわらかく聞こえる。

「こんにちは」

声をかけると、カウンターの奥から桂が顔を上げた。
相変わらず中性的で、年齢の測れない佇まい。
けれど、視線が合った瞬間、ほんのわずかに目元が緩む。

「お久しぶりやね。元気そうで、何よりや」

「ええ。今日は……確認に来ました」

私はそう言って、奥のガラスケースに視線を向ける。
けれど、そこに“形あるもの”は並んでいない。

預けたのは、指輪でも、手紙でも、物ですらなかった。
五年間かけて育ててしまった、ひとつの執着。
亮への愛情という名の縁。

桂は、私の意図を察したように、静かに頷く。

「戻したい、とは言わはらへんな」

「はい」

即答だった。
もう迷う理由はない。

桂は、帳面を一冊取り出し、何かを確かめるように指先を滑らせる。

「質流れや。きれいさっぱり」

その言葉に、胸の奥が、すっと静まった。

「もう、重さは残ってへんやろ」

「ええ。不思議なくらい」

私は笑う。
かつてあれほど心を占めていたものが、今は思い出せる“過去”に変わっている。

「それでええ」

桂は、いつもの淡い笑みを浮かべる。

「手放したもんが戻らへんのはな、失ったからやない。
もう、要らんようになっただけや」

その言葉を、私は静かに受け取った。

店を出ると、路地の影は相変わらず濃い。
けれど、その先には、確かに午後の光が差し込んでいる。

私はスマートフォンを取り出す。
付き合い始めた彼からの通知。

〈もうすぐ着くよ。コーヒー、いつものでいい?〉

〈ええ。ありがとう〉

送信して、歩き出す。

仕事は順調だった。
忙しさはあるが、心は擦り減らない。
隣には、同じ歩幅で歩く人がいる。
言葉を尽くす必要も、耐える理由も、証明もいらない関係。

過去は消えていない。
傷も失敗も、確かにここにある。

けれどそれらは、もう縛りではなかった。
差し出すために抱えるものではなく、
ただ、自分の奥に静かにあるだけだ。

百万遍の喧騒が、ゆっくりと現実を取り戻す。
学生の笑い声、車の音、いつもの午後。

私は一度だけ振り返る。
路地は薄く霞み、そこに何があったのかさえ
思い出せないほど静かだ。

焔魔堂は、そこに在るだろう。
手放せない想いを抱えた者が、迷い込むかぎり。
現実の裏側に、ひっそりと。

けれど私は、もう訪れない。
今の私は、何も預ける必要がない。

両手は空いている。
だからこそ、誰かの手を取れる。

午後の光の中へ。
自分で選び取った人生のほうへ。

ゆっくりと、歩き出した。

桂は、これからも焔魔堂にいるのだろう。
時を量り、想いを量り、
人がどうしても置いていけないものを
黙って受け取るために。

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