京都、百万遍リセット③

現代小説

レジデンスを飛び出した私は、そのまま冷たい夜気の中へ駆け出した。

「……亮」

声は掠れ、涙で視界が滲む。
岡崎の街灯が水の中のように揺れ、胸の奥が焼けつくように痛んだ。
息がうまく吸えない。
それでも足だけは止まらず、舗道を叩き続ける。

東山の稜線が、夜空に黒く沈んでいる。
私はただ、無我夢中で走った。

岡崎疏水の水面が街灯を細く映し、ゆらゆらと揺れている。
その光さえ、今の私には刺すように冷たかった。

「……信じていたのに」

声にした瞬間、喉が震え、また涙が溢れた。

気がつくと、私は鴨川まで来ていた。
冬の川風が容赦なく頬を切り、痛みが感覚を引き戻す。
川端通りをそのまま北へ歩く。
街の空気が、少しずつ変わっていくのがわかった。

観光地の華やかさが薄れ、代わりに学生の街の匂いが混じり始める。
足は意思とは無関係に前へ進み、出町柳の駅前を抜け、やがて百万遍の交差点が視界に入った。

夜の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
大通りを滑るように流れるヘッドライトの帯だけが、影を異様に長く路面へと引き延ばしていた。

――二十七歳。私の現在地。

大学を卒業して分析ラボに就職し、微生物検査員として働いてきた。
派手なメイクも装飾品も必要のない職種。
向き合う相手は人ではなく、無数のデータと試料だけ。
私はいつも、そんな地味な日常を生きていた。

そんな私を、大学時代の先輩が亮に紹介した。

彼は、普通なら私とは交わることのない世界の人間だった。

「理系の女性は頭がいい。論理的で、静かで、落ち着いている」

初対面のときから、亮はそう言って私に興味を示した。

「結婚するなら、君みたいな子がいいな。派手に遊び歩く女性は、正直疲れるし」

その言葉を、私は疑いもせず信じた。

「仕事が落ち着いたら、結婚しよう」

そう言われたとき、私は一生分の運を使い果たしたのだと思った。
それほど、幸せだった。

だから五年間、彼を支え続けた。
人当たりが良く、社交的で、激務をこなす亮。
その背中を一番近くで支えてきたのは私だと、心から信じていた。

彼の歩む道を助けることが、いつしか私自身の誇りになっていた。

約束してくれた未来を、ほんの一ミリも疑わなかった。

優先順位の中で、いつも後ろに回されていると分かっていながら――それでも。

自分のやりたいことも、キャリアも、すべて後回しにした。
尽くして、我慢して、彼の色に染まっていれば、いつか必ず報われる。そう信じていた。

今夜のパーティーも、彼のために最高の夜を用意すれば、その先に「幸せ」が待っていると、本気で思っていた。

まさか、あの冷たい廊下で、残酷な真実を突きつけられることになるなんて。

ふと、亮の部屋に置きっぱなしの私物が脳裏をよぎる。
別れるにしても、まだ取りに戻らなければならないものがある。
その現実が、胸に重くのしかかった。

横断歩道の前で立ち止まり、深く息を吸った、そのときだった。

「……あ」

視界の端から、激しいヘッドライトの光が流れ込む。
鋭いブレーキ音が、夜を引き裂いた。

――そして。

身体がふわりと浮き、次の瞬間、冷たいアスファルトに叩きつけられた。

遠のく意識の中で、最後に思い出したのは、皮肉にもあの言葉だった。

「仕事が落ち着いたら、結婚しよう」

嘘で塗り固められた、優しい声。

強い衝撃のあと、私は――

深い闇へと、落ちていった。

***

どれくらい時間が経ったのか、分からない。

消毒液の匂いも、機械音もない。
代わりに、古い木の乾いた香りと、灯油ランプのかすかな匂いが、ゆっくりと意識を引き戻していった。

「……ここ、は……」

重たい瞼を押し上げると、煤けた梁と、橙色の灯りが静かに揺れているのが見えた。
見慣れた病室の天井ではない。

全身に鈍い痛みが走る。
けれど、それ以上に胸の奥を占めていたのは、痛みですら埋められない、空っぽの感覚だった。

「やっと目ぇ覚ましたんやね」

柔らかいのに、どこか冷ややかさを含んだ声。

視線を向けると、そこにいたのは、長い睫毛と白い指先を持つ人物だった。
男とも女ともつかない中性的な美貌。
灯りの下で、その輪郭だけが静かに浮かび上がっている。

ここは病院ではない。
どこか洋館の応接間のような空間で、私は古いソファに横たわっていた。
壁には、時代の読めない時計や、名の知られぬ絵画、掛け軸が無秩序に並んでいる。

「……ここは?」

喉が乾いて、声はかすれていた。

「ここは質屋、焔魔堂や。百万遍の路地で倒れてたあんたを、うちが拾ってきたんよ。車は急ブレーキで、かすっただけや。命に別状はない」

淡々とした口調。
けれど、その瞳だけが、この静けさには不釣り合いなほど、焔のようにかすかに揺れていた。

――私は、京都の片隅で、この質屋の店主に拾われたのだ。

「何も聞かへんよ」

そう言って、彼は肩をすくめる。

「あんたのその顔見たら、だいたい察しはつく」

湯気の立つカップが、そっと差し出された。

「今夜はここで休み。明日の朝、あんたが“新しく”生まれ変わりたいって言うなら……力を貸すわ」

――“新しく”生まれ変わる。

その言葉が、胸の奥で静かに反響した。

窓の外では、百万遍の交差点の灯りが、変わらぬ調子で瞬いている。
あのレジデンスも、亮も、舞も、笑っていた人たちも、まるで別の世界の出来事のようだった。

今の私には、この古い店のランプの灯りの方が、ずっと眩しく感じられた。

温かいココアを一口飲む。その瞬間、胸の奥がふっと緩む。

私は初めて、亮のためでも、誰かの期待のためでもなく、自分自身のために涙を流した。

百万遍の焔魔堂で、私の本当の人生が、静かに動き始めようとしていた。

翌朝――。

「……復讐、ですか」

掠れた声で問い返すと、店主は悪戯っぽく、それでいてどこか優しい目で笑った。

「復讐なんて安い言葉で、あんたの五年間を汚すのはもったいないわ」

棚の奥から、細工の施されたルーペを取り出す。

「うちは桂。焔魔堂の店主や。“壊れた縁”と“歪んだ時”を扱ってる」

話を聞くにつれ、桂がただの質屋の店主ではないことだけは分かった。
人の想いや願いに手を加え、代価と引き換えに、もう一度“命”を吹き込む存在――境界の修復師。

理屈は分からない。占い師なのか、陰陽師なのか、そういう類なのかもしれない。
百万遍と清明神社は決して近くないが、京都という街は、そういう理屈を軽々と飛び越えてくる。

「手、見せてみ」

荒れた指先を、桂がそっと包み込む。

「五年間、誰かのために尽くしてきた手やな。その手には“徳”が染み込んでる」

薄い笑みを浮かべて、桂は続けた。

「せやけど、ここは質屋や。差し出す“縁”も“想い”もないままじゃ、うちには何もできへん」

私は胸の奥に残った、最後の痛みを確かめるように指でなぞり、ゆっくりと口を開いた。

「……縁。それなら」

一度、息を吸う。

「愛情を、質入れすることはできますか?」

桂の睫毛が、わずかに揺れた。

驚きではない。
むしろ、ずっとその言葉を待っていたかのような、静かな反応だった。

「……愛情、ね」

灯りがふたりの間で揺れ、焔魔堂の空気が、ゆっくりと色を変えていく。

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