「……彼への愛など、いりません」
私がそう告げた瞬間、桂の指先が、ふっと熱を帯びた。
空気が止まる。
時間そのものが、焔魔堂の奥で息を潜めたかのようだった。
灯りがかすかに揺れ、店の空気が一段深く沈む。
桂はゆっくりと私の額に手を置き、中性的な声で、低く囁いた。
「……愛する気持ちを、質に入れるんやね」
その瞳が、紫がかった色に変わる。
優しさと残酷さの、ちょうど境界にある色だった。
「……冷たくされても、結婚するんだからと我慢していました」
桂は、何も言わずに頷いた。
「本当は、ずっと分かっていたんです。私は大切にされていない」
「質に入れた想いはな、返してほしいと願えば戻る」
「……いいえ」
私は首を振った。
「もう、いりません。彼への愛を、私は捨てます」
その瞬間、桂の瞳が焔のように揺れた。
「なら――預かろう」
静かな宣告だった。
「あんたが五年間かけて育てた、“愛情”という縁。ここに、置いていき」
桂は胸元に手をかざす。触れられていないのに、心臓の奥がじんわりと熱を帯びた。
「もう必要ないのなら、その愛情は……質流れや」
私は息を吸い、震える指先をきつく握りしめる。
「もう、いらない。今日で終わりです。彼を愛していた自分に、戻りたくない」
桂は、祝福するように微笑んだ。
その瞬間だった。
胸の奥に居座っていた、あの重たい痛みが、すっと消えた。
空洞ができた、というより――最初から何もなかったかのように、軽い。
亮への愛情が、確かに“質入れ”されたのだと、身体の奥で理解した。
桂は、私から切り離された“それ”を、目に見えない何かとして、そっと両手で受け止めるように見つめたあと、静かに言った。
「……愛情は、確かに預かった」
一拍置いて、続ける。
「その代わりに、あんたに授けるもんは……そやな」
灯りが揺れ、桂の横顔が淡く浮かび上がる。
「一応、現金って手もあるけど。ここでは、選べる」
そう言って、黒い漆塗りの箱を開け、中から一巻の巻物を取り出した。
そこには、無機質な文字が並んでいた。
――厚顔無恥・恥を恥とも思わず、非常に図々しくなれる
――破廉恥 ・恥知らずで節度がない行動
――傍若無人・他人を気にせず勝手に振る舞う
――無遠慮 ・遠慮がなく、相手に配慮しない態度
――無頓着 ・気にしない、こだわらない(良くも悪くも
――無神経 ・相手の気持ちに鈍感で気遣いがない
――鉄面皮 ・鉄のように厚い顔、恥知らずで図太い
「ここから、好きなん選び」
「……ここから?」
目を通したが、どれも、正直言って欲しくない。
「あの……」
「遠慮せんでええ。好きなん選び。これはな、スキルみたいなもんや。必要なときに、使える」
断るという選択肢は、最初から用意されていないらしかった。
私は少し考えてから、口を開いた。
「……じゃあ。『厚顔無恥』にします」
自分でも意外な選択だった。
「図太い性格ではないので……もう少し、自信が持てるようになりたいです」
桂は、にこりと笑った。
「ええ選択や。人間、少し厚かましいくらいが、ちょうどええ」
そして、私をまっすぐ見据えて言う。
「誰かに選ばれた自分やなくて、自分で自分を選べる強さ。それがな、あんたに一番足りひんかったもんや」
その言葉は、重く、しかし不思議と痛みなく胸に落ちた。
「愛情を手放した分だけ、心に空いた場所があるやろ」
桂は、私の胸のあたりを指先で示す。
「そこに、自信を入れる。それが――質屋の取引や」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「自信はな、持ちすぎると鼻につく。ちゃんと自分で制御しいや」
そう言って、少しだけ声を和らげた。
「ほんで……新しい自分のために、生きなはれ」
その言葉が、静かに、深く、私の中に沈んでいった。
***
焔魔堂でそのまま眠ってしまった私は、結局、彼のマンションには戻らず、翌朝、自分のアパートへ帰ってきた。
部屋に入るなり、コートを脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。
スマートフォンはバッグの中に入ったままだった。
私は、まだLINEの通知を開いていない。
昨夜、私は「お酒を買いに行く」と言って出たきり、音信不通になったのだ。
普通なら、恋人が戻らなければ心配するものだろう。
何度も電話をかけ、メッセージを送り、それでも返事がなければ探しに出る――それが、少なくとも私の想像する“恋人”だった。
一応、スマートフォンを取り出して、画面を確認する。
「……やっぱり」
亮からのメッセージは来ていた。だが、それは私の身を案じるものではなかった。
『戻ってこないから、これからバーで飲み直すことになった』
『遅くなるだろうから、戻ってきたらアパートに帰っていいよ』
以前の私なら、胸を締めつけられていただろう。
「お酒を買う」という、たった一つの役目を果たせなかった自分を責めて、きっと落ち込んでいた。
――でも。
「は?」
思わず、鼻で笑っていた。
「人を寒空の中に買い出しに行かせて、自分たちはさっさと飲み直し?」
画面を見下ろしたまま、低く呟く。
「……ふざけんじゃないわよ」
胸の奥に、怒りが湧き上がる――はずだった。
けれど、実際には、驚くほど冷めた感覚しかなかった。
なんで今まで、こんなにも彼一筋で頑張ってきたのだろう。
そう思うと、ばかばかしくて、呆れてしまう。
「……愛情がなくなった今、もう亮なんて、どうでもいい存在だわ」
不思議なほど、言葉が軽かった。
「きっと、彼の部屋は昨日のままね」
宅飲みの後片づけは、いつだって私の役目だった。
亮は、自分で掃除をしない。食べ散らかし、飲み散らかし、そのまま放置。
翌日、私が行けば、部屋は元通りになる――それが、当たり前の流れだった。
週に三日は彼のマンションへ通い、掃除も洗濯も、私が完璧にこなしていた。
食事も、栄養バランスを考えて、彼のために用意していた。
「……まさに、無料の家政婦ね」
口に出してみると、乾いた笑いが漏れた。
もちろん、家事労働に対して報酬を請求したことなどない。
夕食の材料費、洗剤やシャンプーといった消耗品、ゴミ出し、クリーニング――日常生活のあれこれ、そのほとんどを、私が負担していた。
「家政婦の方が、給料もらえるだけまだマシだわ」
仕事をしていたほうが、よほど有意義だった。
正直に言えば、私の給料は同年代の女性より悪くない。
地味ではあるけれど専門職だし、貯金だってそれなりにあった。
それを、彼の生活費に注ぎ込んでいたなんて――今となっては、信じられない。
「……そういえば、昨日のパーティー代も、私が払ってたわね」
財布からレシートを取り出し、請求書作成アプリを開く。
入力しながら、ふと思った。
「どうせなら……今まで彼のために使ったお金、全部まとめて請求しようかしら」
そうして、五年分の領収書を引っ張り出し、計算を始める。
「……三百二十万円」
画面に表示された総額を見て、思わず息を呑んだ。
「こんなに使ってたんだ……」
このお金で、高級エステにも行けたし、ネイルも美容院も、もっと自分に投資できたはずだ。
「……いや、でも」
ふと、理性が口を挟む。
食事は、彼のために作っていたけれど、私自身も食べている。
そう考えれば、材料費は半分にするべきかもしれない。
マンションの家賃や光熱費は、彼が払っている。
「でも……食材費は、買い出しも調理も含めた家事労働の対価ってことで、請求しても問題ないわよね」
そこまで割り勘を主張されたら、ただのドケチだ。
そのときは、彼の友人たちにLINEで言いふらしてやればいい――と思ったが、すぐに気づく。
「あ……友人も、全員彼の仲間だったわね」
一瞬考えて、答えはすぐに出た。
「……それなら、上司に直メールでも送ろうかな」
プライドの高い彼のことだ。
食費を彼女に出させていたと知られたら、さぞかし恥ずかしいだろう。
私はクローゼットの奥から、旅行用のスーツケースを引きずり出した。
使う予定は、もう決まっている。ほこりを払い、ファスナーを開ける。
気がかりなのは、ただ一つ。
彼のマンションに置きっぱなしの、私の荷物を回収すること。
それだけだった。
スーツケースを転がし、私は彼のマンションへ向かった。

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