できるだけ、亮との接触は避けたい。
けれどこの時間帯なら、まだ部屋で寝ている可能性が高い。
昨夜は遅くまで飲んでいたはずだ。
そのまま起きてこなければ、私は荷物だけまとめて、何事もなかったように出ていける。
そう願いながら、ICカードをかざした。
エントランスのロックが、小さな電子音を立てて外れる。
静まり返った共用廊下。
エレベーターの扉に映る自分の顔を見て、少し驚いた。
思っていたより、ずっと落ち着いている。
昨日までの私なら、この建物に足を踏み入れただけで胸の奥がざわついていたはずだ。
けれど今は、不思議なほど何も感じなかった。
玄関の鍵を開け、そっと中に入る。
脱ぎ捨てられた靴が、まるで投げ出されたままの気持ちみたいに転がっている。
リビングには、まだ昨夜の酒の匂いが濃く残っていた。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「昨日のまんま。見事なまでに散らかってる」
テーブルの上には空のワインボトル。
パーティー料理の残骸、汚れた皿。
床には紙ナプキンが無造作に散らばっている。
――きっと彼は、こう言う。
『俺がいると邪魔になるから、掃除は任せるよ。いつもありがとう』
感謝の言葉だけは、忘れない。
でも、手伝ったことは今まで一度もなかった。
以前の私なら、ため息をつきながら片づけていただろう。
きっと彼は良い妻になるだろうと感じてくれるはずだと思いながら。
でも、もう違う。
私はスーツケースを立て、黙々と作業を始めた。
洗面所の歯ブラシ、化粧品。
キッチンのミトン、エプロン。
自分のものだけを選び取り、手早く詰めていく。
別に捨ててくれても構わないけど、自分の私物に彼が触れることが、ひどく嫌だと思った。
「……捨てるにしても、一回持って帰ろ」
そのとき――
背後で足音がした。
「……ああ……詩織?」
眠たげな声。
振り向くより早く、背中にぬるい体温が触れる。
腕が、腰に回された。
「おはよ……」
耳元で、甘えるような声。
自分に非があるかもしれないと感じたとき、亮はいつもこうだ。
優しさと自己弁護を混ぜた声音。
「結局、朝方までバーで飲んでさ。悪かったね、置いてきぼりにして」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
悪寒がする。
私は彼の腕を外し、一歩前に出て距離を取る。
「……お酒臭い」
亮の動きが止まる。
「なあ詩織、蜆の味噌汁作ってくれない?二日酔いに効く、いつものやつ」
「え、嫌だけど?」
そう言って、彼に背を向けた。
「ああ、マジで飲みすぎた」
私の返事は彼には聞こえていなかったようだ。
私は気にせず、もくもくと作業を続ける。
ペアで買ったマグカップ。
私専用のお箸。
「部屋の片づけは後でいいって。ていうか、いつもならその日のうちにやるだろ?」
「そうね」
短く答える。
亮はソファにだらりと身体を投げ出し、片目だけを開けていた。
朝の光が、やけに眩しいらしい。
「……頭、割れそう」
喉を鳴らし、弱々しく呟く。
「詩織、二日酔いの薬あっただろ?」
――無視。
もはや、ただの雑音。
「自分の荷物を取りたいから、寝室に入るわね」
「おい、昨日は俺も飲みすぎてさ。悪かったって」
返事はしない。
「……でもちゃんとLINEしたよね?」
「いつまでも拗ねてないでさ。機嫌直してよ」
私は淡々と告げる。
「拗ねてないわ」
そして、足を止め、ゆっくり振り返る。
「臭いだけ」
亮は少し驚いたように、目を丸くした。
「……先にシャワー浴びてくる」
そう言い残し、彼はバスルームへ消えた。
私はその背中を見送ることもなく、再びスーツケースに向き直る。
寝室のクローゼットから、着替えに置いていた洋服を取り出して作業を終えた。
もともと私物は少なかったおかげで、荷物は驚くほどコンパクトだ。
キャリーケースの車輪が、床を転がる。
「……なあ」
シャワーを終えた亮が、背後から声をかけてきた。
タオルで髪を拭きながら、まだ散らかったままのリビングを一瞥する。
「……手際、悪くね?」
返す言葉すら無駄に思え、私はそのまま玄関へ向かった。
スーツケースを一瞥した後彼は言った。
「なに、旅行でも行くのか」
その声には、苛立ちも怒りもない。
ただ淡々と、スケジュールを聞く上司のような態度だ。
「もう戻ってこないから。私物を取りに来ただけよ」
亮は気に留めた様子もなく、再びソファに身体を沈める。
「へえ。会社のやつ?でも部屋どうすんの?このまま片づけしない気?」
以前なら、『ごめんね、すぐやる』
そう言って掃除を始めていたはずだ。
けれど、今回は違う。
「……ふっ」
短く、乾いた笑い。
亮が半身を起こす。
「じゃあさ、先に味噌汁作ってよ。それからゆっくり片づければ――」
「無理だけど?」
「……え?」
「飲みたかったら、自分で作れば?」
突き放すでもなく、責めるでもない。
ただの事実だった。
「何かあったのか? ……怒ってるのか」
ようやく、そう聞いてきた。
「いいえ」
即答。
「怒ってないわ」
亮は立ち上がって、私の顔を覗き込んだ。
「詩織にはいつも感謝してるよ。料理も掃除も上手いし、俺のために何でもしてくれる」
彼は私を抱きしめようと、腕を伸ばした。
左肩を引いて、彼を避ける。
「おい、いい加減、機嫌直せよ」
「別に怒ってないから、ちょっと邪魔だし、そこどいてくれる?」
「なぁ……」
彼は私の腕を掴んだ。
気持ちが悪い、なんか蕁麻疹がでそうだ。
「そういえば、昨日の食材費、全部私が出してるわね」
「……食材費?」
私は軽く頷きながら腕を払ってコートのポケットを探る。
わざと一拍、沈黙を挟んだ。
「私、一口も食べてないから。全部払ってね」
その言葉に、亮の動きが止まった。
じっとこちらを見る。
三万八千円のレシートを差し出すと、彼は受け取る前に一瞬ためらい、渋々つまみ上げた。
眉間にしわがより、口角が下がった。
「……え?こんなに使ったの?」
声には、驚きよりも不満が混じっている。
「それでも安い方だけど? ケータリングじゃないし、全部手作りだし」
亮はレシートを裏返したり、金額をもう一度なぞったりしてから、納得できないまま鼻を鳴らした。
「……まあ、わかったよ」
スマホを操作する間も、舌打ちが聞こえた。
「ほら、送った……でもさ」
一瞬、言葉を切る。
どこか探るような目で私を見る。
「今まで、そんなこと言わなかったよね?」
「え?」
私は首を傾げる。
「あなたの友だちの飲み会の費用よね?まさか――私のおごりだったの?」
わざとらしく目を見開くと、亮は露骨に顔をしかめた。
「……は?」
その反応が答えだった。
「いや、普通さ。彼女だったら、そういうの気にしないだろ」
視線を逸らし、ソファにどさっと座り直す。
小さく、吐き捨てるように呟く。
「ケチかよ……貧乏くせぇ」
「堅実なの」
亮はピクリと肩を揺らした。
こちらを見るが、何も言い返せない。
私はここで〈厚顔無恥〉のスキルを発動する。
恥を恥とも思わず、堂々と図々しく――
なんて、清々しい。
「そんな些細なことで文句言うなよ。将来はここに住めて、エリートの妻って立場になるんだぞ?黙って支えるのが役目だろ」
亮は勝ち誇ったように笑い、腕を組んだ。
「誰ルールよ、それ」
心の内で、相手にする価値はないと判断した。
亮は口を開きかけ、閉じた。
嫌な予感がしたのだろう。
「あとで、今までの分、まとめて請求するから」
「……は?」
今度は、はっきりと声が裏返った。
「パーティーのたびに、全部私が立て替えてたでしょう?亮は一緒にスーパー来ないもんね」
「だって俺が行っても、何を買えばいいかわからないだろ」
早口になる。
「料理するのは詩織なんだからさ」
「そうよね」
私は頷く。
「だから食材費も、お酒代も、全部領収書があるの」
亮の喉が、ごくりと鳴った。
「だって――立て替えてたんだもの」
「……そんな話、今まで一度も言わなかっただろ!」
声を荒げるが、どこか焦りが滲む。
「なんで今さら――」
「え、払わないの?」
私は穏やかに問い返す。
亮は言葉に詰まり、視線を彷徨わせた。
「まさか……」
静かに、畳みかける。
「私のおごりだと思ってた?」
沈黙。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「いや……そういう意味じゃなくてさ」
亮は私の方へ一歩近づき。
何かを探すように視線を彷徨わせ、また私を見る。
「ずっと、普通にやってきただろ?お互い様っていうか……」
亮の顔を一度だけ、上から下までゆっくり眺める。
それから、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑顔というには、あまりに薄い。
私はゆっくりと首を傾げた。
「あなた……ケチなの?貧乏くさっ」
亮は、私の口からその言葉が出たことを、すぐには飲み込めなかったらしい。
目を瞬かせ、乾いた笑いを漏らす。
「私、自分の人生を生きるわ」
私はそう言って、スーツケースの取っ手を引いた。
玄関の床に転がる老舗メーカーの革靴を、靴先で隅へ蹴りやった。

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