玄関のドアが閉まった瞬間、私は一度だけ深く息を吸った。
胸いっぱいに入ってきた空気は、驚くほど軽い。
――静か。
亮のマンションに通っていた頃、こんな静けさを意識したことはなかった。
足音、テレビの音、酔った声。
常に誰かの気配に神経を張りつめていて、静けさは「不在」ではなく「緊張の合間」にしか存在しなかった。
「……自由だ」
思わず、声が漏れる。
最初の数日は、不思議な感覚だった。
朝、目覚ましを止めても、誰かのために起きる必要がない。
亮の冷蔵庫の中身を気にして献立を考えることも、帰り道にスーパーへ寄る義務もない。
空いた時間が、静かに、しかし確実に増えていった。
私はその時間を、ずっと後回しにしてきたものに使い始めた。
専門書を開き、論文を読み、止めていた個人プロジェクトを再開する。
大学院時代に触れていたシミュレーション手法。職場では「工数がかかるから」と却下されていた解析モデル。
「……やっぱり、面白い」
深夜までコードを書いても、疲労より高揚感のほうが勝った。
誰にも邪魔されず、「そろそろ寝ろよ」と言われることもない。
数週間後、その成果を社内の技術レビューに持ち込んだ。
「既存モデルだと誤差が大きすぎます。この条件なら、非線形項を入れたほうが再現性が高いです」
会議室が一瞬、静まり返る。
「……それ、もう実装してるの?」
上司が眉を上げる。
「はい。テストデータでは、誤差を三割削減できました」
スクリーンに映し出されたグラフに、視線が集まる。
「これ……すぐ実案件に使えるな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
――私は、ちゃんと評価される場所にいた。
仕事でも商談に参加するようになった。
以前なら、少し身構えていた取引先。
「今度の案件ですが、正直に言います。こちらの条件では受けられません」
以前の私なら、「検討します」「努力します」と言って、自分を削る方向へ逃げていた。
でも、今は違う。
「この内容なら、こちらの提示が最低ラインです。それ以上を求められるなら、お受けできません」
声は穏やかだが、言い切っていた。
胸の内は、不思議なくらい静かだった。
取引相手は数秒考え、やがて小さく息を吐いた。
「……分かりました。条件、持ち帰ります」
その背中を見送りながら、私は気づく。
――ああ、これか。
図々しさじゃない。
開き直りでもない。
自分の価値を、自分で下げないというだけのこと。
それが、私が選んだ「厚顔無恥」だった。
ある日、同僚に誘われて、久しぶりに飲み会に参加した。
以前なら、「今日は無理」と即答していたはずなのに、その日はなぜか断る理由が思いつかなかった。
仕事の話、くだらない冗談、次のプロジェクトの噂。
気づけば、笑っていた。
「詩織さん、こんなふうに笑うんですね」
隣に座っていた後輩が、何気なく言う。
胸が跳ねた。
「あ、意外?」
「ええ。でも、いいですね」
素直な言葉を受け取るたび、私は少しだけ背筋を伸ばした。
休日はカフェでノートPCを開き、アイデアを書き留める。
ふと窓ガラスに映る自分の表情が、以前よりずっと柔らかいことに気づく。
――誰かの役に立つためじゃない。
――自分が面白いと思うから、やっている。
それだけで、世界はこんなにも広かった。
ある夜、ベランダに出て街の灯りを見下ろす。スマホは静かなまま。
「……戻らなくてよかった」
そう思えたことが、何よりの答えだった。
風が頬をなでる。
私は髪を耳にかけ、静かに微笑む。
これから先、何にだってなれる。
少なくとも――もう、自分を小さくする必要はなかった。
***
会場は、ホテルの高層階にあるガラス張りのホールだった。
分析ツールの正式リリースを兼ねた発表会と、そのまま流れ込む立食形式のパーティー。
照明は抑えめで、スクリーンにはデモ画面と数式、グラフが静かに切り替わっている。
私はグラスを片手に、その様子を眺めていた。
黒に近いネイビーのワンピース。
アクセサリーは最小限。
ヒールは低めだけれど、背筋を伸ばして立っていると、不思議と視線を感じる。
「先ほどの説明、とても分かりやすかったです」
落ち着いた声に振り返る。
「沢渡と申します。◯◯社で、分析基盤の設計を担当しています」
差し出された名刺とともに、穏やかな笑み。
整った顔立ちだが、自己主張は控えめで、知性が前に出るタイプだった。
「ありがとうございます」
「質疑で触れていた非線形項の扱い、実務で踏み込むのは勇気が要る。
でも、あの構成なら納得できます」
専門的な話が、自然に続く。
言葉を選ぶ必要がない。同じ前提で会話が進む。
「質問があれば、いくらでも」
そう言う自分の声が、驚くほど落ち着いていた。
“説明する側”に立つことが、もう特別なことではなくなっている。
――そのときだった。
会場の入口付近が、わずかにざわついた。
詩織は無意識に視線を向け、ほんの一瞬、思考が止まる。
亮だった。
スーツ姿ではあるが、どこか浮いている。
名札を下げてはいるものの、知り合いに連れられてきたのだろう。
展示の内容も、誰が中心人物なのかも掴めていない様子で、落ち着きなく視線をさまよわせている。
――ああ。
胸の奥は、不思議なほど静かだった。
特に亮を気にすることもなく、会場内で談笑していると、背後で足音が止まった。
「……やっぱり、詩織だよな」
聞き覚えのある声に、私は小さく息を吐く。
振り返ると、亮が立っていた。
先ほどよりもグラスの中身は減っているが、表情は妙に張りつめている。
「さっきから探してた」
私は首を傾げる。
「そう」
それ以上でも、それ以下でもない返事だった。
亮は一歩距離を詰める。
「急にいなくなるし、連絡は取れないし……正直、説明くらいあってもよかったんじゃないか?」
その言い方に、胸の奥がかすかに冷える。
まだ“自分が説明を受ける側”だと思っている。
「もう、必要なことは全部伝えたと思うけど」
「でもさ」
亮は被せるように言う。
「五年だぞ。俺たち。こんな終わり方、納得できるわけないだろ」
周囲の視線を気にして、声を落としているつもりなのだろうが、語気は強い。
「納得できないのは、あなたでしょ」
私は静かに言った。
「私は、もう整理がついてる」
亮は一瞬、言葉に詰まったようだったが、すぐに食い下がる。
「……今なら、ちゃんと話せると思うんだ。俺も反省したしさ。お前がいない生活がどれだけ――」
「亮」
名前を呼ぶと、彼ははっとした顔をした。
「ここ、仕事の場なの」
一歩だけ、距離を取る。
「個人的な話をする場所じゃない」
「じゃあ、後で。連絡先、変わってないだろ?」
彼の必死さに、胸がざわつくより先に、疲労感が湧いた。
「ああ、ブロックしているけど?」
私はきっぱりと言う。
「もう、個人的に連絡を取るつもりはない」
亮の顔が歪む。
「……なんで、そこまで拒絶するんだよ」
「拒絶してるんじゃない」
私は視線を外し、会場の明かりを見る。
「終わってるだけ」
それでも亮は立ち去らない。
「俺、本気で結婚しようと思ってたんだぞ」
「そう、私はしたくないけど?」
「本気だった!」
声が少し大きくなり、近くの人がこちらを見る。
私は亮を見た。
「仕事中だから、あなた、邪魔」
それだけ言うと、私は踵を返した。
「……詩織っ」
亮は、何か言いかけたまま黙り込む。
伸ばされた手が、宙で止まっていた。
私は振り返らない。
ガラス越しの会場に戻ると、照明とスクリーンの光が私を包む。
そこは、もう私の居場所だった。
亮の視線が背中に刺さっているのを感じながらも、足は一度も止まらなかった。
スクリーン前での説明を終え、少し人の輪から外れたときだった。
「さっきは、ありがとうございました」
声をかけてきたのは、先ほど質疑をしてきたエンジニアだった。
近くで見ると、整った顔立ちをしている。
無駄のない黒髪、柔らかい目元。派手さはないが、清潔感と知性が滲んでいた。
「いえ。鋭い視点で、助かりました」
そう返すと、彼は少し照れたように笑う。
「正直、今日の中で一番印象に残りました。あのモデル、発想がきれいで」
“きれい”という言葉が、胸の奥にすっと落ちた。
成果ではなく、考え方そのものを見てくれている。
「よかったら、この後、他社さんの展示も一緒に見ませんか?」
自然な誘い方だった。
仕事の延長線でありながら、どこか個人的な距離も感じる。
「……はい」
返事をした自分の声が、少し柔らかいことに気づく。
並んで歩き始めると、不思議と歩幅が合った。
専門用語が当たり前に通じる。説明を省いても、話が前に進む。
――楽しい。
その感覚を認めた瞬間だった。
「詩織!」
背後から、強い声。
振り返るより早く、手首を掴まれた。

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