京都、百万遍リセット②

現代小説

窓いっぱいに広がる東山の夜景を背に、エリートたちのホームパーティーが始まった。

高層階のリビングには柔らかな灯りが満ち、シャンパングラスが触れ合う澄んだ音と、計算されたような笑い声が、冬の京都の静けさへと溶けていく。
外の冷気とは切り離された、完璧に整えられた空間だった。

私、水瀬詩織の隣には、付き合って五年になる恋人――藤堂亮がいる。

外資系メーカーの営業職。
京都でも指折りの高級住宅街に建つ、七階建てレジデンスの一室に住むエリートサラリーマン。
背が高く、モデルのように整った顔立ちで、誰の目にも分かりやすい「成功」を身にまとった人だった。

私は今日という日を、ずっと心待ちにしていた。

この夜景の前で、友人たちに囲まれながら、きっと彼は指輪を差し出してくれる。
そんなおとぎ話のような未来を、疑いもしなかった。疑う理由が、どこにもないと思い込んでいた。

「あ、お酒がなくなったな」

亮が何気なくそう言って、私を見る。

「悪いけど、詩織。買いに行ってきてくれない?」

その軽い一言が、胸の奥をぎゅっと締め付けた。

今日は私たちの記念日で、準備も料理も、すべて私ひとりでやった。
それでも、ここまでは何も言わなかった。
けれど、この底冷えする京都の夜に、また外へ行けと言うのだろうか。

「ワインは十分そろっているけれど……」

そう言いかけた私の言葉を遮るように、亮が続ける。

「紹興酒が飲みたいんだ」

「……紹興酒?」

亮が中国酒を口にするところなど、これまで一度も見たことがない。

「やっぱ、中華と言えば紹興酒だよな」

友人の一人が、どこか面白がるように笑って後押しする。
春巻きが食べたいという亮のリクエストに応え、唯一中華風の一品を用意した。
その結果が、これだった。

「もうお店も閉まってるし、コンビニには売っていないと思うけど……」

――やっぱり、「行かなくていい」と言ってくれないだろうか。

淡い期待は、次の言葉であっさり裏切られた。

「行ってみて、なかったらそれでいいけどさ。行かずに決めるのはどうかと思うよ?」

確かに、そうかもしれない。

亮が春巻きを食べたいと言ったから用意した。なのに中国酒を忘れていた。
……私のミスだ。
一瞬胸に浮かんだ違和感を、意識の底へ押し込む。
ここで空気を乱すわけにはいかない。

私が不機嫌になれば、せっかくの夜が台無しになる。

「わかったわ。すぐ戻ってくるね」

精一杯の笑顔を貼り付ける。
愛される彼女らしい、従順な笑顔。
彼の身勝手な頼みごとにも逆らえず、自分の気持ちに蓋をする
――そんな日常に、私はもう慣れすぎていた。

亮は、私にはまぶしすぎる存在だった。

取り柄もない、地味な私を、彼が選んでくれた。
その事実だけで、すべてが正当化される気がしていた。
亮のためなら、底冷えの夜風の中へ飛び出すことさえ、愛情と献身の証なのだと、信じ込もうとしていた。

***

凍えるような外気の中、私は重い袋を抱えて戻ってきた。

京都・岡崎に建つ低層レジデンス。
外廊下は夜気をまとい、靴底から冷えがじわじわと伝わってくる。
インポートマーケットを何軒も回り、ようやく見つけた紹興酒が袋の中でかすかに触れ合う音を立てた。

こんな無茶な願いを叶えたのだから、きっと褒めてくれる。
――そう、思いたかった。

指先はかじかんでいたけれど、不思議と胸の奥には小さな達成感があった。
それが、冷え切った体をほんの少しだけ温めてくれていた。

オートロックを開け、静まり返った共用廊下を進む。
リビングの扉に手をかけた、その瞬間だった。

中から声が漏れてくる。

聞き慣れた亮の友人たちの声。
そして、話題は――私だった。

「それにしても詩織ちゃんさ、あんなに健気に尽くしてるのに、可哀そうだよな」

半ば呆れたような笑い声。心臓が跳ね、鼓動が急に速くなる。

「ほんとだよな。亮、お前、あの子と結婚する気なんてないんだろ?」

頭の奥に、鋭い痛みが走った。
私はドアノブを握ったまま、動けなくなる。

――違う。
――そんなことない。

いつもの、穏やかな声で。
そう否定してくれるはずだと、疑いもせずに待った。

だが、返ってきたのは乾いた声だった。

「……結婚? するわけないだろ」

一瞬で、世界から色が消えた。

追い打ちをかけるように、亮の同期だという浅倉舞が彼の腕に絡みつく。
派手で、華やかな世界がよく似合う女だった。

「便利なパシリとして置いてるだけだもんね。だって亮、ずっと私のことが好きだもん」

勝ち誇った高い声。
重なる笑い声。
否定しない亮。

袋の持ち手が指に食い込み、痛いほど重く感じられた。

洗練された都会のエリートたち。
キラキラした上流気取りの人間たち。
窓の向こうに広がる東山の夜景は、ただ冷たく、そして血の気が引くほど下品に見えた。

「あんなに甲斐甲斐しく働かされて、無料の家政婦みたいだよな」

「いや、家政婦以上に便利だろ。金もかからないし、文句ひとつ言わずに酒まで買いに走るんだから」

笑い声が重なるたび、胸の内側が削られていく。

「亮、お前も罪な男だよな。あの子、本気で来年には結婚できるって信じてるぜ」

「……信じさせておけばいいんだよ。その方が、飯も掃除も、勝手にクオリティ上がるしな」

冷酷な声だった。

「従順が美徳って、昭和かよ」
「亮があんな地味な子と結婚するわけないな」
「俺のキャリアに、何のメリットもない」

吐き捨てられる言葉の一つ一つが、刃物のように刺さる。

嗚咽が漏れそうになり、私は咄嗟に口元を押さえてしゃがみ込んだ。

「国立出てるって言うけど、頭が良くても貧乏くささが抜けないのよね」

浅倉舞の甘ったるい声が、廊下にまで響く。

「そうだな。詩織はそこそこ顔はいいんだから、もっと努力すべきだよな」

「それを怠って女子力皆無って、ほんと笑える」

亮の満足げな笑い声が続く。

その瞬間、私の中で、五年という歳月が音を立てて崩れ落ちた。

もう、扉を開けて戻ることはできなかった。
視界は涙で歪み、五年間積み上げてきたものすべてが、彼らにとってはただの失笑の種でしかなかったのだと、はっきり理解してしまった。

感覚のなくなった手で、重い袋をドアの前に置く。
一刻も早く、この場所から消えたかった。

振り返らずに、レジデンスを出る。

エレベーターを降り、夜の京都へと飛び出した。

「……亮」

街の灯りも、冬のイルミネーションも、涙に滲んで輪郭を失っている。

「……ひどい」

なりふり構わず走り続けた。心臓が痛いのか、肺が苦しいのか、それすら分からない。

ただ冷たい夜風だけが肌を刺し、心ごと切り裂いていった。

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