京都、百万遍リセット⑥

現代小説

「何を考えてんだ、詩織……」

俺は壁に拳を叩きつけた。
鈍い音が部屋に残り、反動が拳に返ってくる。痛みよりも、胸の奥に溜まった苛立ちの方が強かった。

「急に……」

スマホを手に取る。
画面は暗いまま。通知も着信もない。
時計を見る。十分、二十分、一時間。

――どうせ、すぐ連絡してくる。

そう思っていた。
詩織はそういう女だ。
感情的になっても、最後には折れる。
五年も一緒にいた。今さら一人になる勇気なんて無いだろう。

「生意気に説教でもする気かよ」

鼻で笑う。
だが、社員旅行の話なんてしていただろうか?
今までは予定が入ったら必ず俺に報告していた。

「……聞いてないし」

喉の渇きを覚え、立ち上がった。

冷蔵庫を開け、お気に入りのミネラルウォーターを一本取り出し、ふたをひねる。

一口飲んで、リビングを見渡す。

散らかったテーブル。
空のワインボトル。
床に落ちた紙ナプキン。

前なら、もう片付いてたはずだ。
胸の奥に、じわりと居心地の悪さが広がる。

「……気持ちわりぃな」

誰に向けるでもなく呟き、ため息をついた。
仕方なく、テーブルの上の皿を重ねる。

「食洗機が全部やってくれるだろ、こんな楽な家事をグダグダ言って」

ガチャガチャと乱暴に中へ放り込む。
その瞬間、嫌な音がした。

カン。

一拍遅れて、パリン、と乾いた破裂音。

「……あ?」

食洗器の中に白い破片が散っている。
詩織が大事にしていた皿だ。

『これは欠けやすいから……』詩織が言っていた言葉が、記憶の端に浮かぶ。

「皿なんて割れて当たり前だろっ!」

吐き捨てるように言い、破片を拾い上げた拍子に指先を切った。

「ッ……クソ」

滲む血。
それだけで、やけに腹が立った。

「だから家事なんか意味わかんねぇんだよ」

食洗器に突っ込めば、後は自動でやってくれると思っていた。

仕方なく、キッチンを離れ、洗濯機の前に立った。

「ボタン押すだけだろ、こんなの」

洗濯物を無造作に放り込む。
白も色物も区別なし。
洗剤も、目についたボトルを適当に傾けた。

「誰がやっても同じだっての」

スタートボタンを押そうとして、手が止まる。

……どれだ?

標準、念入り、ドライ、エコ。
意味のわからない文字が並んでいる。

「いやいや……」

乾いた笑いが漏れる。

「家事やってるとか、大げさなんだよ」

適当に一番上のボタンを押す。
ピー、と音が鳴った。

しばらくしても、動く気配がない。
蓋を開けると、水すら入っていなかった。

「……は?」

もう一度押す。
今度はエラー音。

「意味わかんねぇ……」

蓋を閉めたり開けたり、何度も試す。
それでも洗濯機は動かない。

「……こういうのは女の仕事だ」

吐き捨てた言葉が、妙に空回りする。
いつも勝手に回っていたものが、今日は動かない。

「クリーニングに出せばいいだけだし」

自分に言い聞かせるように呟き、ソファにどさっと身体を投げた。

「そうだ。詩織じゃなくても家事なんて業者に頼めばいいだけだし。それに……」

それに、詩織は俺を愛している。
自分が全部やっていたと言いたいんだろうけど、それは誰にでもできることだと知らしめてやるいい機会だ。

「俺に説教しようなんて、甘いんだよ」

そう呟き、ソファの背にもたれたままスマホを手に取った。
家事代行業者、と検索欄に打ち込む。
表示された料金表を見た瞬間、胸の奥で何かがぎしりと音を立てた。

――高い。

二時間で八千円。そこに交通費、急ぎのオプション。
軽く一万円を超える。
思っていたよりずっと高額だった。
だが、顔色一つ変えず、ただ画面を指でなぞる。

「まあ……プロに任せるなら、こんなもんか」

声に出したのは、その一言だけだった。

業者選びに時間をかけるのは癪だった。
口コミを読めば読むほど、どれも信用できない気がしてくる。

ふと、浅倉舞の顔が浮かんだ。
彼女も一人暮らしが長い。
仕事で忙しくしているから、家事代行も利用しているかもしれない。
舞に連絡してみる。

〈なあ舞。家事代行で、いいところ知らない?〉

すぐに返事が来た。

〈あるよ。私、よく使ってる〉
〈高いけど、急ぎでもやってくれるよ〉

一瞬だけ目を細めた。
「高い」という単語が、やけに引っかかる。

……詩織は、これを無料でやってたんだよな

思考がそこに向かいかけた瞬間、小さく鼻を鳴らした。

〈じゃあ、そこ頼む〉

それ以上は考えない。
金で解決できるなら、それでいい。

――数時間後。

インターフォンが鳴り、業者がやって来た。
エプロン姿の女性たちは、淡々とした動きで部屋に入り、無駄のない手順で片付けを始める。

割れた皿は処分され、床は拭かれ、止まっていた洗濯機が正しい手順で回り出す。
ソファに座ったまま、その様子をぼんやりと眺めていた。

――ああ、こうやってたのか。

誰も教えてくれなかったことを、今さら知る。
不思議と悔しさはなかった。ただ、少しだけ居心地が悪い。

作業が終わるころ、窓の外は夕方の色に染まっていた。
リビングは、以前よりもずっと整っている。

「ありがとうございました」

ドアが閉まり、静けさが戻る。

「……金で済むなら、楽なもんだな」

そう呟いた直後、再びインターフォンが鳴った。

ドアを開けると、浅倉舞が立っていた。

「終わった?」
「ああ。助かった」

舞は部屋を見回し、満足そうに頷く。

「でしょ? あそこ、外れないのよ」

「詩織がいなくても、全然問題ないな」
「それにしても、詩織さんも部屋散らかしたまま旅行に行くなんて無責任よね」

そう言って、舞はソファに腰を下ろした。

「昨日、詩織に酒を買いに行かせたまま皆で出かけただろう?」
「それで拗ねたのね?笑える」

「ああ……別に、詩織がいなくてもどうとでもなる」

余裕があるように見せるのは、昔から得意だった。

「今どき、スマホさえあれば、なんでも解決できるもんね」

舞の言葉に、軽く頷く。

「ああ。家事なんて、誰がやっても同じだ」

二時間かけてやってくれたのは掃除だけ、代わりに二万が飛んで行った。

「……腹減ったな」

整ったリビングを一瞥してから、何気ない調子で言った。
冷蔵庫には詩織が買っておいた食材が残っている。

「なんか作ってくれない?」

舞は一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、ゆっくりと俺を見る。

「え?」

「簡単なものでいいよ。冷蔵庫にあるだろ」

俺にとっては、何気ない頼みだった。
詩織に言っていたのと、同じ調子で。

舞は小さく笑った。

「……出前でよくない?」

「は?」

思わず、声が低くなる。

舞は悪びれもせず、スマホを取り出した。

「私、料理しないし。そもそも今日は家政婦役で来たわけじゃないよ」

俺は一瞬、言葉に詰まった。
想定していなかった返答だった。

「いや、別に凝ったのじゃなくてさ」

「うん。でも無理」

舞はきっぱりと言った。
曖昧さのない、線を引く言い方だった。

「またキッチン汚れるし、時間もかかる効率的じゃないよね」

その一言が、妙に胸に残る。

「なんでも出前あるから便利だよね」

舞はそう言って、すでに画面をスクロールしている。

俺は何も言えず、舞の手元を見た。
自分の中にあった「当たり前」が、音を立ててずれていく。

「……まあ、いいけど」

そう言うしかなかった。

配達予定時刻、四十分後。

舞はソファに腰を下ろし、何事もなかったように言う。

「ねえ亮。詩織さんさ、ちょっとつけ上がってない? 当たり前に亮と結婚出来るって、どんなわがままも通るって思ってるんじゃない?」

「……そうだな」

俺は即座に笑った。

「詩織さんは、自分は完璧な彼女だって思っているだろうし、亮に認められたくて必死だったじゃない?」

「ああ」

「彼女がいなくても、別に何の問題もなってところを見せればいいわよ。だって、別に問題ないし」

「まぁ、反省して戻ってくるだろう」
「一週間が限界じゃない?」

「そうだな……三日、だな」

きれいになった部屋。
誰も台所に立たない時間。

胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。

俺はスマホの暗い画面を見つめながら、その違和感を、まだ名前もつけられずにいた。

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