亮と別れてから、一週間。
私は、指定したファミレスの窓際の席に座り、水を一口含んだ。
ここを選んだのには理由がある。
個室でもなければ、雰囲気のいい店でもない。
感情が入り込みにくく、話が長引かない、ただの「場所」。
テーブルの上には、小さな封筒とクリアファイル。
封筒の中には、彼のマンションのカードキー。
ファイルには、五年間で私が立て替えてきた請求書と、その一覧表。
――整理してしまえば、私の五年なんて、この程度。
そう思うと、少しだけ可笑しかった。
ほどなくして、亮が姿を現した。
店内を見回し、露骨に顔をしかめる。
「……ファミレス?」
席に着くなり、吐き捨てるように言う。
「自分で飲み物取りに行くのかよ。学生じゃないんだし、もっとマシな店あるだろ」
私は驚きもしない。ただ、静かに彼を見た。
「ここが都合よかったの」
「何が?」
「用事が短く済むから」
亮は鼻で笑い、タブレット式のメニューに手を伸ばす。
私はその間に、封筒をテーブルの中央へ置いた。
「これ、鍵」
亮の視線が、そこで止まる。
「……は?」
「もう必要ないから」
続けて、クリアファイルを重ねた。
「こっちは請求書。この前言った分、まとめたもの」
亮はファイルを開き、流し見る。
ページをめくるたび、眉間の皺が深くなっていく。
「……三百……?」
「五年分よ。立て替えてた分は、それくらいになる」
声は自分でも驚くほど淡々としていた。
「金の話をするために、わざわざ呼び出したわけ?」
「そうだけど?」
亮は一瞬黙り込み、ドリンクバーの方向をちらりと見る。
「……俺の飲み物も、自分で取りに行けってことか?」
「種類多いし、いいんじゃない?」
彼は私の表情を探るように、じっと見た。
「……なんか、変わったな」
「そう?」
私は微笑んだ。
「ようやく、元に戻っただけ」
亮は何か言い返そうとして、言葉を失ったようだった。
私の目は、もう揺れていない。
「支払いの期限は、来月末まででいいわ」
亮は椅子の背にもたれ、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「とにかくさ、ここじゃまともに話もできないだろ。俺のマンションに来てくれ」
私は即座に首を横に振る。
「え? いやだけど?」
あまりに即答で、亮の言葉が途切れた。
「……なんでだよ」
「行く理由がないもの」
亮は舌打ちし、ファイルを指で叩く。
「待てよ。どう考えても、この金額おかしいだろ」
私は静かにファイルを引き寄せ、ページを開いた。
「全部、領収書があるから」
日付、店名、金額。
アプリで撮影し、整理してきた証拠。
亮は眉をひそめ、なおも食い下がる。
「でもさ、食費だったら詩織も食べてただろ。折半が普通じゃないか?」
その瞬間、私は冷えた目で彼を見返した。
「……普通?」
小さく息を吐く。
「家事労働代は含まれてないし、五年分だと思えば安いでしょう」
「でも、外食代は俺が払ってたし。彼女なんだから、それくらい――」
「月に一回、あなたの友だち集めて宅飲みしてたよね」
亮が言葉に詰まる。
「そのとき、私ずっと動いてた。ウエイトレスみたいに。私が食べたのは、余り物だけ。あなたが寝た後」
一拍置いて、続ける。
「クリーニング代も、消耗品も、全部私」
亮の視線が泳ぐ。
「それでも、折半?」
少し首を傾げて、短く言った。
「……せこ」
亮の顔が赤くなる。
「お前さ……」
「もういいわ」
私は立ち上がる。
「これ以上、話すことないから」
「待てよ!」
私はバッグを肩にかける。
「これで、用事は終わり」
「それだけ言いに来たのか?」
一瞬だけ足を止め、振り返る。
「ええ」
そして店を出た。
自動ドアが開き、外の空気が流れ込む。
――これで、終わり。
***
詩織から連絡が来たのは、一週間後だった。
三日くらいだろうと思っていたから、正直「思ったより粘ったな」という感想しかなかった。
俺から連絡するつもりは、もちろんなかった。
詩織は今回のことで少なからず反省しているはずだし、
優良物件である俺から、本気で離れられるわけがない。
実際、彼女がいない生活は不便だった。
外食ばかりで食費はかさむし、舞に紹介された家事代行も、正直ハズレだった。
高い金を払ったわりに要領が悪く、無駄な出費が増えただけ。
――まあ、さっさと折れて戻ってくればいい。
最近は、確かに詩織を少し雑に扱っていたかもしれない。
召使みたいだった、と言われれば否定はできない。
だから今回は、俺も少しは譲歩してやるつもりだった。
「アクセサリーでも買ってやれば、機嫌も直るだろ」
そう考えながら、指定されたファミレスへ向かった。
正直、店選びには不満だったが、どうせすぐ終わる話だ。
――なのに。
別れ話?
言いたいことだけ言って、席を立つ詩織。
俺は反射的に後を追っていた。
店を出た彼女は、迷いなく歩き出す。
夕方の風に髪が揺れ、その背中はやけに軽やかだった。
「待てよ!」
距離を詰め、腕を掴む。
自分でも驚くほど、必死だった。
振り返った詩織の顔を見た瞬間、言葉を失う。
――誰だよ、これ。
そこにいたのは、記憶の中の「俺の彼女」じゃなかった。
怯えも、伺うような視線もない。
さっぱりしていて、生き生きとして、妙にきれいだった。
「……触らないで」
低い声。
感情的じゃない、拒絶だけがはっきりした声。
「待てって。これを……じゃあ、これを支払ったらさ」
掴んだ腕を離せず、言葉をつなぐ。
「ちゃんと、戻ってくるんだよな?」
詩織は一瞬だけ目を細めた。
そこにあったのは、感情ではなく――整理だった。
「……確かに」
ゆっくりと言う。
「細かい会計をあやふやにしてたのは事実だし、あなたが悪かったと思う」
その言い方に、胸がざわつく。
「とりあえず払ってね。私、無料の家政婦じゃないから」
その言葉に、なぜか心臓が跳ねた。
誰かが、どこかで、同じことを言っていた気がする。
友人だったか、自分だったか――思い出せない。
「……それでいいのかよ」
「なにが?」
「俺の彼女として、結婚も考えてただろ? お前、もう二十八なんだし」
その瞬間、詩織の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。
だが、それは揺らぎじゃない。
「別に」
淡々と、言う。
「あなたと結婚したくなくなっただけ」
「……は?」
声が裏返る。
「何言ってんだよ。五年も付き合って、そんな簡単に――」
詩織は、心底うんざりしたように息を吐いた。
「五年が長いか短いかは、人によるわ。
私は、もう十分だったし、これ以上はないの」
「おい! いい加減にしろよ!」
思わず声を荒げる。
詩織は、静かに俺を見る。
「……愛されて当然だなんて、その思考が、もう終わっているのよ」
その言葉は、刃物みたいに胸に突き刺さった。
彼女の目には、怒りも悲しみもない。
「あなた、エリートなんでしょう? 結婚相手なら、他にいくらでもいるじゃない」
そう言って、俺の手を振りほどく。
「これ以上、あなたに説明する義務も、納得させる責任もない」
夕暮れの光の中で、詩織は背を向けた。
「連絡は、もうしないで」
そう言い残し、今度こそ歩き出す。
俺は、追えなかった。
怒鳴る言葉も、言い訳も、引き留める理由も、全部が的外れになる予感しかしなかった。
詩織は振り返らない。
――初めてだった。
自分の手から、完全に零れ落ちていくものを、俺がはっきりと理解したのは。

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