京都、百万遍リセット⑨

◆ 京都、百万遍リセット
◆ 京都、百万遍リセット

玄関のドアが閉まった瞬間、私は一度だけ深く息を吸った。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は、驚くほど軽い。

静かだ。
亮のマンションに通っていた頃、こんな静けさを意識したことはなかった。
足音、テレビの音、酔った声。
常に彼の気配に神経を張りつめていて、そこにある静寂は「平穏」ではなく、単なる「緊張」に過ぎなかった。

「……自由だ」

思わず、声が漏れる。

最初の数日は、不思議な感覚だった。
朝、アラームを止めても、誰かのために起きる必要がない。
亮の冷蔵庫の中身を気にして献立を考えることも、帰り道にスーパーへ寄る義務もない。
空いた時間が、確実に増えていった。

私は、その時間を、今まで後回しにしてきた研究にあてた。
専門書を開き、論文を読み、止まっていた作業を少しずつ進めていく。

「……やっぱり、面白い」

深夜まで向き合っても、疲れより高揚感のほうが勝った。
誰にも邪魔されず、思うままに自分のしたいことを。

数週間後、その成果を社内のレビューに出した。

「既存の方法だと誤差が大きすぎます。こちらのほうが再現性が高いです」

会議室が一瞬、静まり返る。

「……それ、もう試しているのか?」

「はい。誤差は三割ほど減りました」

スクリーンに映るグラフに視線が集まる。

「これなら、すぐに使えるな」

その言葉を聞いた途端、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ただ、嬉しかった。
私は、ちゃんと評価される場所にいたのだ。

仕事の商談にも参加するようになった。
以前なら少し身構えていたような、気難しい取引先。

「今度の案件ですが、正直に言います。こちらの条件では受けられません」

かつての私なら、「検討します」「努力します」と口にして、自分をすり減らすほうへ逃げていた。
でも、今は違う。

「この内容なら、こちらの提示が最低ラインです。それ以上を求められるなら、お受けできません」

声は穏やかだった。
けれど、はっきりと言い切れた。
胸の内は、不思議なくらい静かだった。

取引相手は数秒考え、やがて小さく息を吐く。

「……分かりました。条件、持ち帰ります」

ああ、これなのだ。
図々しさでも、開き直りでもない。
相手の言いなりにならず、価値を、自分で下げないというだけのこと。
それが、私が選んだ「厚顔無恥」だった。

ある日、同僚に誘われて、久しぶりに飲み会に参加した。
以前なら今日は無理と即答していたはずなのに、その日はなぜか断る理由が思いつかなかった。

仕事の話から、くだらない冗談まで、今まで聞いたことがなかった皆のプライベートな話題。
気づけば、私は笑っていた。

「詩織さん、こんなふうに笑うんですね」

隣に座っていた後輩が、何気なく言う。

「あ、意外?」
「ええ。でも、いいですね」

素直な褒め言葉を受け取って、嬉しかった。

休日はカフェでノートPCを開き、アイデアを書き留める。
ふと窓ガラスに映った自分の顔が、前よりずっと生き生きしていることに気づく。

誰かの役に立つためじゃない。
自分が面白いと思うから、やっている。
それだけで、世界はこんなにも明るくなるなんて。

ある夜、ベランダに出て街の灯りを見下ろす。
スマホは静かなままだ。

「……とても穏やかな気分だ」

そう思えたことが、何よりの答えだった。

風が頬をなでる。
これから先、どう生きようと私は自由だ。
少なくとも、もう自分を小さくして生きる必要はなかった。

***

会場はホテルの高層階にあるガラス張りのホールだった。
取引先を招いたレセプションパーティーで、簡単な発表会も兼ねている。

照明は控えめで、窓の外には夜景が広がっている。
テーブルにはフィンガーフードが並び、グラスの触れ合う音が静かに響く。

スーツ姿の人々が名刺を交換し、あちこちで笑い声が上がる。
スクリーンには会社のロゴや紹介スライドがゆっくりと切り替わっていた。

私は関係者に挨拶をしていた。
黒に近いネイビーのワンピースに、アクセサリーは控えめ。
ヒールは低いが、背筋を伸ばして立っていると、周囲の視線を感じる。

「先ほどのご説明、とても分かりやすかったです」

落ち着いた声に振り返ると、穏やかな笑みの男性が立っていた。

「澤井と申します。分析基盤の設計をしています」

差し出された名刺を受け取る。
整った顔立ちで、控えめながら知性が感じられる。

「ありがとうございます」

「実務で踏み込むのは勇気がいりますが、あの構成なら納得できます」

専門的な会話が自然に続く。
言葉を選ばなくても、同じ前提で話が進む。

「ご質問があれば、お答えします」

自分の声は思った以上に落ち着いていた。
説明する立場も、もう特別なものではない。

「ありがとうございました」

話が終わると、澤井さんは丁寧に礼を述べた。

「こちらこそ、鋭い視点で勉強になりました」

そう返すと、彼は少し照れたように笑う。

「正直、今日で一番印象に残りました。あのモデル、発想がきれいで」

「きれい」という言葉が胸にすっと落ちた。
成果ではなく、考え方を見てくれている。

「よかったら、この後、他社の展示も一緒に見ませんか」

自然な誘いだった。仕事の延長でありながら、少し個人的な距離も感じる。

「はい」

自分の声が少し柔らかい。
並んで歩き出すと、歩幅が自然と合う。
専門用語も無理なく通じ、説明を省いても会話が続く。

楽しい。そう思えた瞬間だった。

そのときだった。
会場の入り口付近が、わずかにざわついた。
視線を向けた瞬間、思考が止まる。

亮だった。
スーツ姿だが、どこか場に馴染んでいない。
知人に連れられて来たのだろう。展示の内容も、誰が中心かも分かっていない様子で、落ち着きなく視線をさまよわせていた。

胸の奥は、不思議なほど静かだった。
気にせず会話を続けていると、背後で足音が止まる。

「……やっぱり、詩織だよな」

聞き覚えのある声に、諦めに近い息を吐いた。
振り返ると、表情を強張らせた亮が立っていた。

「やっと見つけた。さっきから探していたんだ」

私は軽く首を傾げる。

「そう」

短く返す。
亮は一歩、距離を詰めた。

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