京都、百万遍リセット⑨

現代小説

玄関のドアが閉まった瞬間、私は一度だけ深く息を吸った。
胸いっぱいに入ってきた空気は、驚くほど軽い。

――静か。

亮のマンションに通っていた頃、こんな静けさを意識したことはなかった。
足音、テレビの音、酔った声。
常に誰かの気配に神経を張りつめていて、静けさは「不在」ではなく「緊張の合間」にしか存在しなかった。

「……自由だ」

思わず、声が漏れる。

最初の数日は、不思議な感覚だった。
朝、目覚ましを止めても、誰かのために起きる必要がない。
亮の冷蔵庫の中身を気にして献立を考えることも、帰り道にスーパーへ寄る義務もない。

空いた時間が、静かに、しかし確実に増えていった。

私はその時間を、ずっと後回しにしてきたものに使い始めた。
専門書を開き、論文を読み、止めていた個人プロジェクトを再開する。
大学院時代に触れていたシミュレーション手法。職場では「工数がかかるから」と却下されていた解析モデル。

「……やっぱり、面白い」

深夜までコードを書いても、疲労より高揚感のほうが勝った。
誰にも邪魔されず、「そろそろ寝ろよ」と言われることもない。

数週間後、その成果を社内の技術レビューに持ち込んだ。

「既存モデルだと誤差が大きすぎます。この条件なら、非線形項を入れたほうが再現性が高いです」

会議室が一瞬、静まり返る。

「……それ、もう実装してるの?」

上司が眉を上げる。

「はい。テストデータでは、誤差を三割削減できました」

スクリーンに映し出されたグラフに、視線が集まる。

「これ……すぐ実案件に使えるな」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

――私は、ちゃんと評価される場所にいた。

仕事でも商談に参加するようになった。
以前なら、少し身構えていた取引先。

「今度の案件ですが、正直に言います。こちらの条件では受けられません」

以前の私なら、「検討します」「努力します」と言って、自分を削る方向へ逃げていた。
でも、今は違う。

「この内容なら、こちらの提示が最低ラインです。それ以上を求められるなら、お受けできません」

声は穏やかだが、言い切っていた。
胸の内は、不思議なくらい静かだった。
取引相手は数秒考え、やがて小さく息を吐いた。

「……分かりました。条件、持ち帰ります」

その背中を見送りながら、私は気づく。

――ああ、これか。
図々しさじゃない。
開き直りでもない。
自分の価値を、自分で下げないというだけのこと。
それが、私が選んだ「厚顔無恥」だった。

ある日、同僚に誘われて、久しぶりに飲み会に参加した。
以前なら、「今日は無理」と即答していたはずなのに、その日はなぜか断る理由が思いつかなかった。

仕事の話、くだらない冗談、次のプロジェクトの噂。
気づけば、笑っていた。

「詩織さん、こんなふうに笑うんですね」

隣に座っていた後輩が、何気なく言う。
胸が跳ねた。

「あ、意外?」

「ええ。でも、いいですね」

素直な言葉を受け取るたび、私は少しだけ背筋を伸ばした。

休日はカフェでノートPCを開き、アイデアを書き留める。
ふと窓ガラスに映る自分の表情が、以前よりずっと柔らかいことに気づく。

――誰かの役に立つためじゃない。
――自分が面白いと思うから、やっている。

それだけで、世界はこんなにも広かった。

ある夜、ベランダに出て街の灯りを見下ろす。スマホは静かなまま。

「……戻らなくてよかった」

そう思えたことが、何よりの答えだった。

風が頬をなでる。
私は髪を耳にかけ、静かに微笑む。

これから先、何にだってなれる。
少なくとも――もう、自分を小さくする必要はなかった。

***

会場は、ホテルの高層階にあるガラス張りのホールだった。
分析ツールの正式リリースを兼ねた発表会と、そのまま流れ込む立食形式のパーティー。
照明は抑えめで、スクリーンにはデモ画面と数式、グラフが静かに切り替わっている。

私はグラスを片手に、その様子を眺めていた。
黒に近いネイビーのワンピース。
アクセサリーは最小限。
ヒールは低めだけれど、背筋を伸ばして立っていると、不思議と視線を感じる。

「先ほどの説明、とても分かりやすかったです」

落ち着いた声に振り返る。

「沢渡と申します。◯◯社で、分析基盤の設計を担当しています」

差し出された名刺とともに、穏やかな笑み。
整った顔立ちだが、自己主張は控えめで、知性が前に出るタイプだった。

「ありがとうございます」

「質疑で触れていた非線形項の扱い、実務で踏み込むのは勇気が要る。
でも、あの構成なら納得できます」

専門的な話が、自然に続く。
言葉を選ぶ必要がない。同じ前提で会話が進む。

「質問があれば、いくらでも」

そう言う自分の声が、驚くほど落ち着いていた。
“説明する側”に立つことが、もう特別なことではなくなっている。

――そのときだった。

会場の入口付近が、わずかにざわついた。
詩織は無意識に視線を向け、ほんの一瞬、思考が止まる。

亮だった。

スーツ姿ではあるが、どこか浮いている。
名札を下げてはいるものの、知り合いに連れられてきたのだろう。
展示の内容も、誰が中心人物なのかも掴めていない様子で、落ち着きなく視線をさまよわせている。

――ああ。

胸の奥は、不思議なほど静かだった。

特に亮を気にすることもなく、会場内で談笑していると、背後で足音が止まった。

「……やっぱり、詩織だよな」

聞き覚えのある声に、私は小さく息を吐く。
振り返ると、亮が立っていた。
先ほどよりもグラスの中身は減っているが、表情は妙に張りつめている。

「さっきから探してた」

私は首を傾げる。

「そう」

それ以上でも、それ以下でもない返事だった。
亮は一歩距離を詰める。

「急にいなくなるし、連絡は取れないし……正直、説明くらいあってもよかったんじゃないか?」

その言い方に、胸の奥がかすかに冷える。
まだ“自分が説明を受ける側”だと思っている。

「もう、必要なことは全部伝えたと思うけど」

「でもさ」
亮は被せるように言う。

「五年だぞ。俺たち。こんな終わり方、納得できるわけないだろ」

周囲の視線を気にして、声を落としているつもりなのだろうが、語気は強い。

「納得できないのは、あなたでしょ」

私は静かに言った。

「私は、もう整理がついてる」

亮は一瞬、言葉に詰まったようだったが、すぐに食い下がる。

「……今なら、ちゃんと話せると思うんだ。俺も反省したしさ。お前がいない生活がどれだけ――」

「亮」

名前を呼ぶと、彼ははっとした顔をした。

「ここ、仕事の場なの」

一歩だけ、距離を取る。

「個人的な話をする場所じゃない」

「じゃあ、後で。連絡先、変わってないだろ?」

彼の必死さに、胸がざわつくより先に、疲労感が湧いた。

「ああ、ブロックしているけど?」

私はきっぱりと言う。

「もう、個人的に連絡を取るつもりはない」

亮の顔が歪む。

「……なんで、そこまで拒絶するんだよ」

「拒絶してるんじゃない」

私は視線を外し、会場の明かりを見る。

「終わってるだけ」

それでも亮は立ち去らない。

「俺、本気で結婚しようと思ってたんだぞ」
「そう、私はしたくないけど?」

「本気だった!」

声が少し大きくなり、近くの人がこちらを見る。
私は亮を見た。

「仕事中だから、あなた、邪魔」

それだけ言うと、私は踵を返した。

「……詩織っ」

亮は、何か言いかけたまま黙り込む。
伸ばされた手が、宙で止まっていた。

私は振り返らない。

ガラス越しの会場に戻ると、照明とスクリーンの光が私を包む。
そこは、もう私の居場所だった。

亮の視線が背中に刺さっているのを感じながらも、足は一度も止まらなかった。

スクリーン前での説明を終え、少し人の輪から外れたときだった。

「さっきは、ありがとうございました」

声をかけてきたのは、先ほど質疑をしてきたエンジニアだった。
近くで見ると、整った顔立ちをしている。
無駄のない黒髪、柔らかい目元。派手さはないが、清潔感と知性が滲んでいた。

「いえ。鋭い視点で、助かりました」

そう返すと、彼は少し照れたように笑う。

「正直、今日の中で一番印象に残りました。あのモデル、発想がきれいで」

“きれい”という言葉が、胸の奥にすっと落ちた。
成果ではなく、考え方そのものを見てくれている。

「よかったら、この後、他社さんの展示も一緒に見ませんか?」

自然な誘い方だった。
仕事の延長線でありながら、どこか個人的な距離も感じる。

「……はい」

返事をした自分の声が、少し柔らかいことに気づく。

並んで歩き始めると、不思議と歩幅が合った。
専門用語が当たり前に通じる。説明を省いても、話が前に進む。

――楽しい。

その感覚を認めた瞬間だった。

「詩織!」

背後から、強い声。

振り返るより早く、手首を掴まれた。

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