「……っ」
声にならない息が、喉から漏れた。
目の前にいたのは、間違いなく詩織だった。
逃げられると思った。
いや、逃がさないつもりだった。
俺は反射的に手を伸ばし、彼女の手首を掴む。
力は入れていない。
それでも、離す気はなかった。
詩織の身体が、ほんのわずかに引き戻される。
「話、終わってないだろ」
自分の声が、ひどく必死に聞こえた。
さっきまで取り繕っていた余裕なんて、もうどこにもない。
焦りと、どうしようもない執着だけが、胸の奥から溢れていた。
――行くな。
――まだ、俺の話を聞け。
もう一度、手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「……失礼」
低く、落ち着いた声が割り込む。
気づいたときには、見知らぬ男が一歩前に出ていた。
派手な仕草はない。
自然に身体を半身ずらし、結果として詩織を背に庇う位置に立っている。
意図的というより、無意識に近い所作だった。
「彼女が嫌がっています」
穏やかな口調。
だが、言葉ははっきりしていた。
俺の手は、宙で止まる。
「……なんだよ、お前」
苛立ちを隠す余裕すらなかった。
初対面のはずだ。
それなのに、まるで以前から彼女を知っているかのような距離感が、気に障る。
だが、男は視線を逸らさない。
「ここは業界向けのレセプションです。個人的な揉め事を持ち込む場所じゃない」
淡々とした声。
感情を交えない分、余計に正論だった。
そして、それが胸の奥に鋭く突き刺さる。
その背中越しに、詩織が見えた。
俺は、この洗練された空間の中で、ひどく場違いだった。
焦りと執着だけを前に出して、周囲がまったく見えていない男。
――ああ、そういうことか。
「詩織、俺は――」
言いかけた言葉を、遮られる。
「亮、触らないで」
その一言で、すべてが終わった。
口を開いたまま、言葉が出てこない。
拒絶は、これ以上ないほど明確だった。
「大丈夫ですか?」
男が、詩織にだけ向けて尋ねる。
「はい」
即答だった。
俺を見ることすらない。
二人は並んで歩き出す。
肩が触れない程度の距離。
近すぎもしない。
だが、その間に割って入る余地は、どこにもなかった。
きっと彼らは長い関係があるわけじゃないだろう。
それなのに、俺よりずっと自然だった。
詩織の背中が、人の流れの中に溶けていく。
黒に近いネイビーのワンピースが、会場の照明に紛れて見えなくなる。
追おうと思えば、まだ間に合ったはずだ。
数歩、足を出せばいい。
名前を呼ぶだけで、振り返らせることもできたかもしれない。
――なのに、体が動かなかった。
理由は分かっている。
追いついたところで、もう俺の居場所はない。
彼女の隣には、さっきの男がいた。
背筋を伸ばし、落ち着いた仕草で、
必要以上に踏み込むことなく、ただ詩織の選択を尊重する位置に立っていた男。
俺は、あの場で完全に負けていた。
声を荒げ、腕を掴み、必死に縋りつく自分と、
見ず知らずの相手でありながら、一線を守ったまま前に立ったあいつ。
どちらが大人か。
どちらがふさわしいか。
考えるまでもない。
会場に残る理由がなくなり、俺はグラスを置いた。
スクリーンに映る数式やグラフは、もう目に入らない。
ここは、俺の世界じゃない。
ホテルを出たとき、夜風が妙に冷たかった。
胸の奥に残っていたのは、怒りでも悲しみでもなく、
「遅すぎた」という、どうしようもない事実だけだった。
――それから半年が過ぎた。
俺の転落は、静かだった。
家に帰ると、広すぎる部屋が待っている。
明かりをつけても、どこか暗い。
詩織がいなくなってから、部屋はただの箱になっていた。
家賃の引き落とし通知が来る。
残高不足。
再引き落とし。
期限。
最初は「なんとかなる」と思っていた。
今までも、そうやって生きてきた。
だが、ならなかった。
家事代行を減らし、外食を控え、それでも出費は減らない。
生活を回していたのは、俺じゃなかったのだと、数字がはっきり突きつけてくる。
スーツのクリーニングを先延ばしにし、コンビニ弁当が続き、床に溜まる洗濯物を見て見ぬふりをする。
「エリート」「勝ち組」
そんな言葉は、もう何の意味も持たなかった。
管理会社からの連絡は、丁寧で冷たい。
支払いの相談。
猶予。
最終通告。
時計を売り、使っていない家電を処分し、それでも足りない。
段ボールに荷物を詰めると、この部屋がどれだけ無駄だったかを思い知る。
詩織が使っていた収納スペースだけが、妙に空白のまま残っていた。
――最初から、俺一人じゃ、ここには住めなかった。
引っ越し当日。
鍵を返し、エントランスを出る。
ガラス張りのロビーに映る自分は、このレジデンスに似合わない男になっていた。
振り返ることは、しなかった。
振り返ったところで、戻る場所はない。
あの夜、詩織の背中を追えなかった時点で、すべては終わっていたのだ。
スーツケースを引きながら、駅へ向かう。
足取りは重いが、不思議と迷いはなかった。
俺は負けた。
仕事でも、生活でも、そして何より――人として。
それをようやく認められたことだけが、この長い転落の、唯一の収穫だった。
***
【エピローグ】
百万遍の交差点を渡る足取りは、昔よりも軽くなっていた。
信号が変わるのを待ちながら、私はふと空を見上げる。
雲は高く、秋の気配を含んだ風が、頬をなでていった。
あの路地は、今も変わらずそこにある。
細く、静かで、昼間でも影の濃い道。
けれど、初めて足を踏み入れたときのような心許なさは、もうない。
路地の奥で、古びた木の看板が、同じように風に揺れている。
長い年月を黙って受け止めてきた、傷だらけの板。
――質屋・焔魔堂。
引き戸を開けると、鈴がひとつ鳴った。
その音は、以前よりもやわらかく聞こえる。
「こんにちは」
声をかけると、カウンターの奥から桂が顔を上げた。
相変わらず中性的で、年齢の測れない佇まい。
けれど、視線が合った瞬間、ほんのわずかに目元が緩む。
「お久しぶりやね。元気そうで、何よりや」
「ええ。今日は……確認に来ました」
私はそう言って、奥のガラスケースに視線を向ける。
けれど、そこに“形あるもの”は並んでいない。
預けたのは、指輪でも、手紙でも、物ですらなかった。
五年間かけて育ててしまった、ひとつの執着。
亮への愛情という名の縁。
桂は、私の意図を察したように、静かに頷く。
「戻したい、とは言わはらへんな」
「はい」
即答だった。
もう迷う理由はない。
桂は、帳面を一冊取り出し、何かを確かめるように指先を滑らせる。
「質流れや。きれいさっぱり」
その言葉に、胸の奥が、すっと静まった。
「もう、重さは残ってへんやろ」
「ええ。不思議なくらい」
私は笑う。
かつてあれほど心を占めていたものが、今は思い出せる“過去”に変わっている。
「それでええ」
桂は、いつもの淡い笑みを浮かべる。
「手放したもんが戻らへんのはな、失ったからやない。
もう、要らんようになっただけや」
その言葉を、私は静かに受け取った。
店を出ると、路地の影は相変わらず濃い。
けれど、その先には、確かに午後の光が差し込んでいる。
私はスマートフォンを取り出す。
付き合い始めた彼からの通知。
〈もうすぐ着くよ。コーヒー、いつものでいい?〉
〈ええ。ありがとう〉
送信して、歩き出す。
仕事は順調だった。
忙しさはあるが、心は擦り減らない。
隣には、同じ歩幅で歩く人がいる。
言葉を尽くす必要も、耐える理由も、証明もいらない関係。
過去は消えていない。
傷も失敗も、確かにここにある。
けれどそれらは、もう縛りではなかった。
差し出すために抱えるものではなく、
ただ、自分の奥に静かにあるだけだ。
百万遍の喧騒が、ゆっくりと現実を取り戻す。
学生の笑い声、車の音、いつもの午後。
私は一度だけ振り返る。
路地は薄く霞み、そこに何があったのかさえ
思い出せないほど静かだ。
焔魔堂は、そこに在るだろう。
手放せない想いを抱えた者が、迷い込むかぎり。
現実の裏側に、ひっそりと。
けれど私は、もう訪れない。
今の私は、何も預ける必要がない。
両手は空いている。
だからこそ、誰かの手を取れる。
午後の光の中へ。
自分で選び取った人生のほうへ。
ゆっくりと、歩き出した。
桂は、これからも焔魔堂にいるのだろう。
時を量り、想いを量り、
人がどうしても置いていけないものを
黙って受け取るために。


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