クリオネプロムナード
海洋交流館は道の駅になっていて、コンビニやフードコートが入り、観光客で賑わっていた。
そこからオホーツクタワーへ続く遊歩道は、500メートルほどの防波堤で「クリオネプロムナード」と呼ばれている。
石造りの円柱が並ぶ美しい道で、その先には海に突き出すようにタワーが建っている。
両側には、果てしないオホーツク海が広がっていた。
「一人で行くから、ここで待ってて」
私はそう言ったが、門脇くんは無言でついてきた。
無音のため息が漏れる。
「海に流したいものがあるから……ここで待ってて」
もう一度、懇願するように伝えた。
私は海のすぐ近くまで、クリオネプロムナードの階段を下りていく。
そして、防波堤から身を乗り出した瞬間――
門脇くんが、私のダウンコートをがしっと掴んだ。
「海に流したいものって何?」
「……おじいちゃん」
「え?」
意味が分からない、という顔で私を見下ろす。
「散骨するの」
カバンの中からビニール袋を取り出し、門脇くんの目の前に掲げた。
「……骨?」
私は静かに頷いた。
「え、明里のおじいちゃん、そのビニール袋に入ってんの?」
また頷く。
「だから、一人にして」
門脇くんは少し考えたあと、「わかった」と言い、階段を上っていった。
薄紅の空から、ちらちらと雪が舞い降りていた。
防波堤には私以外、誰もいない。
門脇くんは少し離れた場所で、静かに見守ってくれていた。
私はビニール袋を破り、おじいちゃんを海へ還した。
おじいちゃんの故郷の海へ。
雪はやんでいた。
遺灰は、僅かに吹く風に乗り、夕焼けの薄紫と夜の紺色が混ざる空へ舞い上がっていく。
「ごめんなさい……おじいちゃん、ごめんね……」
涙が溢れた。
お葬式のときは出なかったのに、今になって止まらない。
「北海道に、あんなに帰りたいって言ってたでしょ……何度も、帰りたいって……」
おじいちゃんは、自分のことが何もできなくて、手がかかって面倒だった。
でも、嫌いではなかった。
ずっと下を向いて歩くから、よだれが床にぽたぽた落ちて、そのたびに拭くのが嫌だった。
毎朝、水虫の足にワセリンを塗るのも嫌だった。
でも――
小さい頃は、北海道のおじいちゃんの家に行くのが楽しみだった。
夏の海は綺麗で、おじいちゃんの船に乗せてもらい、操舵室に入れてもらえるのが特別で嬉しかった。
だから嫌だけど、嫌いじゃなかった。
おじいちゃんの孫の中で、一番小さかったのは私だった。
きっと、とても可愛がってもらっていたのだと思う。
よく、おじいちゃんは私に船の玩具を買ってくれた。
船なんて別に好きじゃなかったし、欲しくもなかった。
でも――
もしもう一度、家族を選べると言われたら。
私はきっと、同じおじいちゃんを選ぶ。
どれくらい時間が経ったのだろう。
クリオネプロムナードに明かりが灯り、長い防波堤がゆっくりとライトアップされていく。
「……行こう」
しばらくして、門脇くんが静かに声をかけてくれた。
✨「おじいちゃんを、殺したの」
「おじいちゃんを、殺したの」
門脇くんは、何も言わなかった。
「私が、おじいちゃんを……殺したんだ」
その瞬間、門脇くんはそっと私を抱き寄せ、ゆっくり歩き出した。
「お前、やばいヤツじゃん」
その言い方があまりにも優しくて、私はハハッと笑いながら、彼の肩に寄りかかるように歩いた。
海洋交流館に戻ると、門脇くんは缶コーヒーを買ってきて、カイロ代わりに私へ渡してくれた。
あの日の記憶が、ゆっくりと蘇る。
『買い物に行くから、おじいちゃんを見ていて』
母の言葉に、私はいつものように「わかった」と返事をした。
おじいちゃんは介護ベッドに横たわり、半分目を開けたまま眠っていた。
口も開いたまま。
ネットでよく見る“生ける屍”という言葉。
まさにそれだと思った。
私は自分の部屋に戻り、勉強を始めた。
しばらくして――
ガタンッ!
大きな音がして、私は階段を駆け降りた。
「おじいちゃん、大丈夫?」
部屋に入ると、おじいちゃんがベッドの下に倒れていた。
でも、おじいちゃんは寝たきりだ。
一人で動けないし、寝返りもうてない。
ましてや自分でベッドから落ちるなんて、できるはずがない。
なのに、床に倒れている。
私は肩を揺さぶった。
動かない。
痙攣していた。
どうしていいのか分からなかった。
でも――
これで自宅介護から解放される。
おじいちゃんは入院できる。
私は、すごく冷静にそう思った。
母に電話した。
繋がらないから何度もかけた。
父にもかけた。
「今すぐ帰るから」
そう言って電話は切れた。
倒れた人は動かしてはいけない場合がある。
仰向けにしたら危険なこともある。
何分かしたら、また動き出すかもしれない。
おじいちゃんは動きが止まる病気だ。
だから私は、長い時間、おじいちゃんの横に座って様子を見続けた。
多分20分くらい。
でも体感では何時間もそこにいた気がした。
そして――
おじいちゃんは、私の目の前で静かに息を引き取った。
私が話し終えるまで、門脇くんは何も言わなかった。
「なんで、おじいちゃんを殺したと思ってるの?」
「私が早く救急車を呼べば、助かったかもしれない」
「誰かがそう言ったの? 明里のことを責めた?」
私は首を振った。
「ベッドの横で私がちゃんと見ていたら、死ななかったと思う」
ホテルへ向かうバスが来た。
二人とも、それ以上は何も話さなかった。
門脇くんは、ずっと私の肩を抱いていた。
バスに乗り、座席に腰を下ろすと、彼が静かに聞いた。
「ちゃんと、おじいちゃんとお別れできた?」
私は、うん、と頷いた。
家族も親戚も、私を責めない。
むしろ「ありがとう」と言ってくれる。
でも私は、褒められたいわけじゃない。
責められたいわけでも、叱られたいわけでもない。
ただ――
この気持ちを、誰かに聞いてほしかった。
門脇くんに話していると、心が少し軽くなっていくのを感じた。
おじいちゃんは毎日のように「紋別に帰りたい」と言っていた。
せめて遺骨だけでも、故郷の海へ還したかった。
「いっしょに来てくれて、ありがとう」
私はバスの中で、門脇くんにそう伝えた。

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