レジデンスを飛び出した私は、そのまま冷たい夜気の中へ駆け出した。
「……亮」
声は掠れ、涙で視界が滲む。
岡崎の街灯が水の中のように揺れ、胸の奥が焼けつくように痛んだ。
息がうまく吸えない。
それでも足だけは止まらず、舗道を叩き続ける。
東山の稜線が、夜空に黒く沈んでいる。
私はただ、無我夢中で走った。
岡崎疏水の水面が街灯を細く映し、ゆらゆらと揺れている。
その光さえ、今の私には刺すように冷たかった。
「……信じていたのに」
声にした瞬間、喉が震え、また涙が溢れた。
気がつくと、私は鴨川まで来ていた。
冬の川風が容赦なく頬を切り、痛みが感覚を引き戻す。
川端通りをそのまま北へ歩く。
街の空気が、少しずつ変わっていくのがわかった。
観光地の華やかさが薄れ、代わりに学生の街の匂いが混じり始める。
足は意思とは無関係に前へ進み、出町柳の駅前を抜け、やがて百万遍の交差点が視界に入った。
夜の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
大通りを滑るように流れるヘッドライトの帯だけが、影を異様に長く路面へと引き延ばしていた。
――二十七歳。私の現在地。
大学を卒業して分析ラボに就職し、微生物検査員として働いてきた。
派手なメイクも装飾品も必要のない職種。
向き合う相手は人ではなく、無数のデータと試料だけ。
私はいつも、そんな地味な日常を生きていた。
そんな私を、大学時代の先輩が亮に紹介した。
彼は、普通なら私とは交わることのない世界の人間だった。
「理系の女性は頭がいい。論理的で、静かで、落ち着いている」
初対面のときから、亮はそう言って私に興味を示した。
「結婚するなら、君みたいな子がいいな。派手に遊び歩く女性は、正直疲れるし」
その言葉を、私は疑いもせず信じた。
「仕事が落ち着いたら、結婚しよう」
そう言われたとき、私は一生分の運を使い果たしたのだと思った。
それほど、幸せだった。
だから五年間、彼を支え続けた。
人当たりが良く、社交的で、激務をこなす亮。
その背中を一番近くで支えてきたのは私だと、心から信じていた。
彼の歩む道を助けることが、いつしか私自身の誇りになっていた。
約束してくれた未来を、ほんの一ミリも疑わなかった。
優先順位の中で、いつも後ろに回されていると分かっていながら――それでも。
自分のやりたいことも、キャリアも、すべて後回しにした。
尽くして、我慢して、彼の色に染まっていれば、いつか必ず報われる。そう信じていた。
今夜のパーティーも、彼のために最高の夜を用意すれば、その先に「幸せ」が待っていると、本気で思っていた。
まさか、あの冷たい廊下で、残酷な真実を突きつけられることになるなんて。
ふと、亮の部屋に置きっぱなしの私物が脳裏をよぎる。
別れるにしても、まだ取りに戻らなければならないものがある。
その現実が、胸に重くのしかかった。
横断歩道の前で立ち止まり、深く息を吸った、そのときだった。
「……あ」
視界の端から、激しいヘッドライトの光が流れ込む。
鋭いブレーキ音が、夜を引き裂いた。
――そして。
身体がふわりと浮き、次の瞬間、冷たいアスファルトに叩きつけられた。
遠のく意識の中で、最後に思い出したのは、皮肉にもあの言葉だった。
「仕事が落ち着いたら、結婚しよう」
嘘で塗り固められた、優しい声。
強い衝撃のあと、私は――
深い闇へと、落ちていった。
***
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
消毒液の匂いも、機械音もない。
代わりに、古い木の乾いた香りと、灯油ランプのかすかな匂いが、ゆっくりと意識を引き戻していった。
「……ここ、は……」
重たい瞼を押し上げると、煤けた梁と、橙色の灯りが静かに揺れているのが見えた。
見慣れた病室の天井ではない。
全身に鈍い痛みが走る。
けれど、それ以上に胸の奥を占めていたのは、痛みですら埋められない、空っぽの感覚だった。
「やっと目ぇ覚ましたんやね」
柔らかいのに、どこか冷ややかさを含んだ声。
視線を向けると、そこにいたのは、長い睫毛と白い指先を持つ人物だった。
男とも女ともつかない中性的な美貌。
灯りの下で、その輪郭だけが静かに浮かび上がっている。
ここは病院ではない。
どこか洋館の応接間のような空間で、私は古いソファに横たわっていた。
壁には、時代の読めない時計や、名の知られぬ絵画、掛け軸が無秩序に並んでいる。
「……ここは?」
喉が乾いて、声はかすれていた。
「ここは質屋、焔魔堂や。百万遍の路地で倒れてたあんたを、うちが拾ってきたんよ。車は急ブレーキで、かすっただけや。命に別状はない」
淡々とした口調。
けれど、その瞳だけが、この静けさには不釣り合いなほど、焔のようにかすかに揺れていた。
――私は、京都の片隅で、この質屋の店主に拾われたのだ。
「何も聞かへんよ」
そう言って、彼は肩をすくめる。
「あんたのその顔見たら、だいたい察しはつく」
湯気の立つカップが、そっと差し出された。
「今夜はここで休み。明日の朝、あんたが“新しく”生まれ変わりたいって言うなら……力を貸すわ」
――“新しく”生まれ変わる。
その言葉が、胸の奥で静かに反響した。
窓の外では、百万遍の交差点の灯りが、変わらぬ調子で瞬いている。
あのレジデンスも、亮も、舞も、笑っていた人たちも、まるで別の世界の出来事のようだった。
今の私には、この古い店のランプの灯りの方が、ずっと眩しく感じられた。
温かいココアを一口飲む。その瞬間、胸の奥がふっと緩む。
私は初めて、亮のためでも、誰かの期待のためでもなく、自分自身のために涙を流した。
百万遍の焔魔堂で、私の本当の人生が、静かに動き始めようとしていた。
翌朝――。
「……復讐、ですか」
掠れた声で問い返すと、店主は悪戯っぽく、それでいてどこか優しい目で笑った。
「復讐なんて安い言葉で、あんたの五年間を汚すのはもったいないわ」
棚の奥から、細工の施されたルーペを取り出す。
「うちは桂。焔魔堂の店主や。“壊れた縁”と“歪んだ時”を扱ってる」
話を聞くにつれ、桂がただの質屋の店主ではないことだけは分かった。
人の想いや願いに手を加え、代価と引き換えに、もう一度“命”を吹き込む存在――境界の修復師。
理屈は分からない。占い師なのか、陰陽師なのか、そういう類なのかもしれない。
百万遍と清明神社は決して近くないが、京都という街は、そういう理屈を軽々と飛び越えてくる。
「手、見せてみ」
荒れた指先を、桂がそっと包み込む。
「五年間、誰かのために尽くしてきた手やな。その手には“徳”が染み込んでる」
薄い笑みを浮かべて、桂は続けた。
「せやけど、ここは質屋や。差し出す“縁”も“想い”もないままじゃ、うちには何もできへん」
私は胸の奥に残った、最後の痛みを確かめるように指でなぞり、ゆっくりと口を開いた。
「……縁。それなら」
一度、息を吸う。
「愛情を、質入れすることはできますか?」
桂の睫毛が、わずかに揺れた。
驚きではない。
むしろ、ずっとその言葉を待っていたかのような、静かな反応だった。
「……愛情、ね」
灯りがふたりの間で揺れ、焔魔堂の空気が、ゆっくりと色を変えていく。

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